2013年12月31日  
 

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襄陽の歴史文化

 2013年12月31日16:21
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 文化的に見ると湖北省襄陽は、明らかに中国の南方文化と北方文化が交じり合って形成された特徴を持つ街だ。中国の古代、北方の中原文化と南方の楚の文化がこの地で出会って融合した。ここは中原文化の薫陶を受けた地であり、また中国唐代の代表的詩人・孟浩然(689年-740年)が詠んだ「夕次蔡陽館」の詩の一節“听歌知近楚”で有名な南方文化の風俗に深く影響を受けている土地柄だ。襄陽には、河南会館、江蘇会館、浙江会館、徽州会館などの全国20数地域の同郷会館(日本の県人会のようなもの)が集まっている。襄陽は芸術においても、南北の戯曲を結ぶ通路となっており、独特の節回しで唄う「襄陽腔」がこの地で形成された。このほか、「襄陽花鼓」は南北戯曲と現地の民間戯曲が融合して出来た、独特のスタイルを持つ地方劇である。

 ■荆楚文化の発祥地

 800年以上続いた楚国の時代において、荆襄地域は二つの重要な発展時期を迎え、その時代は500年以上続いた。西周の初期、周成王が熊緯に荆山丹陽を領土として与え、紀元前689年に楚の文王が鄢郢に都を定めてから100年以上の歴史を持つ。鄢郢に都を定めてから、紀南城に遷都するまで、その間300年もの間に、何代もの楚王がこの地で生まれた。「楚賦」(屈原や宋玉を代表とする中国古代文学のひとつ)を生んだ始祖である宋玉もここで生まれ育った。今に伝わる中国の古くからのことわざの「下里巴人」(通俗的文学)や「陽春白雪」(高尚すぎて難解)、「高尚すぎて不人気」などの謂れはここから伝わったものだ。またこの地には、「穿天国」と呼ばれる湖北襄陽独特の祭り(旧歴の正月11日目)や神に通じ巫術を行う歌舞「端公舞」、「牽鉤劇」、民間に伝わった宮廷音楽の「唢呐(チャルメラ)巫音」、古代の祭儀儀式の「苞茅縮酒」の楚国の風俗が残っているほか、西周時代の鄧城、宜城市の楚皇城、南漳市の楚寨群、棗陽市九連墩の戦国楚墓等の楚文化を伝える遺跡が残っており、ここからも襄陽に深く残る楚荆文化が明らかに見て取れる。


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