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更新時間:09:23 Apr 02 2009

見落とされた中日両国の黄金時代

1904年、東京で紹興出身の留学生と記念写真を撮る魯迅(後列右)

 文=許知遠

 百年前の世紀末、国の運命を変えるための重要な鍵を探求すべく、大勢の中国の知識人が日本へ渡ったことがある。温家宝総理は07年4月12日、日本の国会で演説を行った際に阿倍仲麻呂、鑑真のほか、孫中山、周恩来、魯迅と郭沫若に言及、また70、80年代の日本の中国への援助にも言及した。これは数年来最も感動的な中国指導者による外交の言葉だった。中日関係については、1931年から1945年にかけてのあの戦争のほか、両国にはまた別の記憶がたくさん残っている。

 中日甲午戦争(日清戦争)が勃発した1894年以降にも中日関係は一つの黄金時代を迎えていたことを、われわれはもう少しで忘れるところだった。1898年から1910年までは中国の政治改革と社会変遷の10年だったが、千年来かつてなかった中国の引き続く社会変革の中で、日本はライバルというだけでなく、模範、友人の役目をも演じたのである。

 1895年から1898年まで、中国の知識人の日本に対する態度に劇的な変化が生じ、憎しみから称賛へと変わった。これは明治維新以降の西洋に対する日本の態度とよく似ており、失敗によって呼び覚まされた学習への欲求は単純な民族情緒を圧倒した。日本人はイギリス、米国、ドイツ、オランダからそれぞれの助けを受けた。そして中国人は、西洋と比べて日本のほうがより親切で模倣しやすい国であることを発見し、伝説的な勃興の経歴によって日本が得るべき尊敬は、その侵略から受けた傷を上回ることに気づいた。

 周樹人、周作人兄弟の一生続いてきた日本への親近感は、その世代の日本への留学生に共通する気分を代表している。1898年から1911年にかけて、少なくとも2万5000人の中国人学生が日本に赴いた。彼らは故郷と全く違う新鮮な空気を吸い、日本の“良好な政治、整った学校、優れた風習、一体となった人心”は彼らに深い印象を残した。そのほか、日本はまたこれらの若者のために世界を見渡す窓口を提供した。魯迅の西洋の小説に対する理解はかなりな程度、日本語の翻訳本に由来するものだった。これら知識人の移住者は1911年以後の中国という舞台で最も活発な要素の1つとなった。彼らは日本の書籍を訳したり、教鞭をとったり、日本の方式によって中国の教育機関を改良したりした。蔡鍔、閻錫山、李烈鈞から蒋介石に至るまでの中国の最も早期の軍事指導者も同様に日本の教育の恩恵を受けた。

 1901年以降、中国人は文化と軍事の分野だけでなく、日本の方式を参考にして、警察官と刑務所システムの改革を行った。このような改革は同様に司法分野に及んだ。変革派の大臣らは日本のような立憲君主制が王権をよりよく守ることができると考え、これを推進しようと準備した。

 1972年から1989年までは中日国交回復直後のいまひとつの黄金時代を迎えた。罪悪感を抱く日本は実際行動を通じて中国の経済発展を援助してくれたが、日本人は中国に巨額の援助を与えたものの、これが中国の大衆にあまり知られていないことによく不平を言う。

 1989年以降は中国経済の急成長によって、日本人は中国を脅威と感じることになると同時に、双方とも昔の歴史に効果的に対処する方式を見つけることができずにきた。日本が20世紀の中国に対して犯した、許すことのできない罪悪によって、中国は半世紀を経ても依然として日本を正常な国家と見なしたがらないようだ。両国はともに、さかんに言葉を並べて互いを非難し合っているが、さらに深い面で見ると、両国の表面的な憎しみにはいずれもより多様な要素が含まれている。

 中日両国の交流史を全面的に念入りに見ることは今日でも貴重な意義を持っている。われわれは1931年から1945年までの怒りの歴史を絶えず喚起させるほかに、1898年から1910年までの黄金時代のことも同様に再認識すべきである。いかなる時代、いかなる国との間でも、憎しみは問題を解決することができない。ジョージ・ワシントンの二百年前の言葉は今日でもなお、この上なく正しい。“他民族に対する愛慕あるいは憎しみの情におぼれる民族は、ある意味で奴隷と化し、このような愛慕あるいは憎しみの情の奴隷になるだろう”。

 「北京週報日本語版」2009年4月1日

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