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私の知っている日本人

 血だらけの槍を振り回しているちょび髭の軍人たち。それが私がテレビで知った最初の日本人だった。小学生だった私は「日本人って人殺しばっかりね」と言った。そばにいる父は「お前のお祖父さんは日本人に殺されたんだ」とひとこと言って黙り込んだ。その日から私にとって日本人は敵になった。

 二〇〇二年八月、私は大学の入学通知を受け取った。そこには日本語学科と記されていた。友人や親戚は「本当に日本語を勉強するの?」と聞いてきたが、私は答えることができなかった。そんな私を見て、父は言った。「仕方ない、せっかく受かった大学なんだ、適当にやり過ごせばいい」。私も覚悟を決めた「たった四年、我慢しよう」

 二〇〇三年二月、日本語の勉強を始めて一年半が過ぎた頃、一人の日本人留学生が私の語学パートナーになった。跳んだりはねたりして近づいてきた彼女は、「ルミでーす。新潟大学から来たの、よろしくね」と笑顔で言った。「あ、どうも」私はそっけない返事を返した。しかし、陽気なルミは怯まなかった。「ルミねえって呼んで、私は三年生だけど、そっちはまだ二年でしょ」と。あっけにとられている私にルミは提案した「ねえ、雪景色を見に行こうよ」。ルミに引っぱられて外に出ると、きれいな雪景色が目の前に広がっていた。

 「新潟の雪は一メートル以上も積るんだよ、雪国と呼ばれてる。私は雪が大好きで、初めての中国で中国人の友達と雪景色を見れるなんて幸せ!……徐沚ちゃんの沚って珍しい字だね、どんな意味?」

 「つぼみの意味です」

 「素敵--! 美しい名前、これから花になるってことだよね。よし、それじゃあ花ちゃんと呼ぼう」……。

 別れ際に私は挨拶のつもりで「ありがとう」と言った。ルミは私の手を取ると「とんでもない、これから花ちゃんの日本語も、ルミねえの中国語も上手になるよう頑張ろうね」と言ってガッツポーズをした。

 このように、ルミは私が初めて接した日本人となった。それから一年半、彼女と一緒に、日本の漫才から中国の相声、芭蕉の俳句から李白の詩、羊羹から北京ダックまで、いろいろと楽しんできた。

 ある日、私はふと祖父の話をした。日本人に殺されたというと、ルミは黙って涙を流した。私は慌てて「ごめん。ルミねえを責めたいわけじゃないの」と言ったが、ルミは泣き続けていた。「ごめんね、花ちゃん。ごめんね……」と言いながら。私は会ったこともない祖父のために泣いたことがなかった。しかし、ルミは私の祖父のために泣いてくれた。それは笑い転げて過ごした二人の日々のたった一度の例外だった。

 二〇〇二年七月二十五日、ルミの帰国の日となった。私はルミが大好きな牡丹の種をプレゼントした。「花が咲いたら花ちゃんを思い出して」、私の言葉にいつもはしゃいでいるルミは何も言わず、急に私に背中を向けて泣き出した。「いつか日本に来てね」、「うん、約束する」私は小指を出してルミと約束した。

 それからの二年間、ルミと連絡を取りながら、私は数え切れないほどコンテストに参加した。失敗するたびに、ルミが励ましのメールを送ってくれる。「またチャンスがあるよ、メゲないで!」、「花ちゃん頑張れ! つぼみならいつか咲くよ!」、「ルミねえは花ちゃんの味方だから、心配しないで!」……。

 そんな励ましのなか、私は二年間必死に努力した。そして二〇〇六年四月、中華杯スピーチコンテストで優勝し、夢にまでみた東京決勝戦参加の資格を掴んだ。ルミに連絡したら、自分のことのように喜んでくれ、東京の地図と自分の住所への路線図を送ってくれた。

 東京についた翌日、ルミのアパートに行ってみた。プランターは牡丹の花で一杯だった。「ほら、あの時の牡丹だよ」ルミは笑いながら言った。私の目からはいつのまにか涙がこぼれていた。

 帰りの飛行機の中、私はもう一度、遠ざかる緑の島国、日本を見た。そこにはもう敵なんかいない。そこにいるのは私の初めての外国の友人、そして私の一生の友人、ルミねえだ。

 (徐 バイ 北京大学)

 特別提供:日本僑報社・日中交流研究所
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