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私が出会った日本人たち

 祖父は軍人だった。若い時に日中戦争に参加し、其の辛い歴史を見てきたのだ。体に戦争の傷跡が今でも残っている。祖父はあまり昔のことを話したがらなかったが、彼の経歴と傷跡は子供の私にとって誇りのようなものであり、よく友達の前で祖父の偉さを見せびらかした。その頃、子供の間で「抓日本鬼子」という子供の間のゲームが流行っており、 私たち幼い心には「日本人は怖い、日本人は悪者だ」と植付けられた。

 少し大きくなっても、わたしはやはり多くの中国人と同じように、日本人に対してあまり好感を持てなかった。ある日、「おしん」という人気ドラマを見て、ちょっと考えが変わってきた。とても印象深かったのは脱走兵俊平のことだった。戦争と兵隊から逃げ出しても戦争が残した苦痛は一生消えない。彼の繰り返して詠んだ与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」も多くの中国観衆の心を打った。「戦争の傷跡は栄誉どころか、まったく愚かなことだ。日本の国民も戦争を嫌がっていた」と初めて知らされたのだ。

 大学時代、偶然にも日本語専攻を選んだ。何人かの日本人と出会ううちに日本人をもっと理解するようになった。一年生の時、発音指導をしてくださったのは松田先生だった。松田先生は六十歳ぐらいで、背があまり高くなく、ちょっと太っていたが、いつもにこにこしていた。以前はある小学校の校長で、定年後ボランティアとして、中国にいらしゃったと聞いていた。日本語の発音は私たち初心者にとって、とても難しくて、授業の時間だけでは足りなかった。それで、松田先生は夕食後、私たちを家に呼び、一人ずつ練習させた。各人の間違いを丁寧に直し、本当に真面目な先生だった。今振り返って見ると、夜に輝き照らす松田先生の家のオレンジ色の明かりは本当に暖かかった。週末になると、先生の奥様はカレーライスを作ってくれて毎回大変ご馳走になった。すごくおいしかった! そのカレーの味は今でも忘れられない。先生の真心は私たちはしみじみと感じ取っていた。

 倉田先生は三年生の時わたしたちに精読を教えてくれた。先生は三十歳ぐらいで、ほっそりした体つき、髪が短く、とても元気な女性だった。彼女は文法、文化、歴史、芸術、どの分野のこともよく知っていて、授業はすばらしく、それを聞くのはとても楽しみだった。倉田先生もまじめな方で、宿題を見る時にはどんなに小さいミスでも見落とさなかった。それに、先生の意見もちゃんと書いてくれた。しばらく、ご主人が先生に会いに来た時、先生はわたしたちの授業を準備するために、よく夜の二時までも仕事を続けたと偶然に知った。ほんとにびっくりした。目の前にいろいろなことが浮かんできた。先生のみごとな講義、先生の関心を持つ目つき、先生のやさしい笑顔、先生の目立ってきた白髪…その時、将来わたしも倉田先生のような優れた先生になろうと決めた。

 私には他にも日本の友達が沢山いる。其の中で実はまだ会ったことがない友人も居るのだ。会ったことがないのにお互いによく知っている。大学三年の時に青山さんという日本のかわいい女の子とペンフレンドになった。同じ年、同じ性格、同じ興味の二人の女の子は国という枠を超えて、いい友達になった。青山さんは日本の文化とか面白いことなどをいろいろ紹介してくれた。私に日本の風習を理解させるために、ひな祭りのとき、家の雛人形の写真を送ってくれた。桜が咲いたころ、桜の写真もたくさん撮って送ってくれた。日本の人気のある本もそれぞれ買ってくれた。わたしも中国の刺繍をプレゼントとして青山さんに送った。手紙の交流で、二人の心はよく通じ合ってきた。

 いろいろな日本人と出会うと同時に、日本人をもっと理解するようになった。やさしさ、思いやり、勤勉、真面目…これらのことは私の人生にも影響を与えてきたのだ。大変良い勉強になっている。今は既に日本語教師になった私は私の沢山の日本の友人たちに一言が言いたい、「ありがとう! これからは私は後輩の皆さんに色々と教える番だ!」

 (張桐赫 湘潭大学外国語学院)

 特別提供:日本僑報社・日中交流研究所
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