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親子二代の中日友情

 今から三十年前、文化大革命が終わり国家の経済、文化、教育などの発展が次第に正しい軌道にのり始めた。農村から都市に戻った私は久しぶりに教科書を手にとり、大学入試の準備をしていた。ある日、父は勤めから帰ると「今日、私は日本の室田先生から長距離電話を受け取り、先生と二十分間くらい話した。私が生きている間に恩師と連絡できるとは思ってもみなかった。これは人生で最大の幸せなことだった」と興奮して言った。その晩、父は私に「榕榕、明日から日本語を教えてあげますがいいですか? 私たちが一年間一生懸命努力すれば、外国語学院の日本語学科に合格できると思うのだが」と真剣に話した。私は父が日本語ができることを全く知らなかったので驚きました。同済大学を卒業した祖父は中国最初の英文新聞を創刊した人ですが、三十歳になる前に亡くなったので、父の半生は尋常でなく艱難辛苦だったのです。それに私の記憶の中の父と家族は政治方面でずっと審査される対象だったのです。だから不思議に思って父に「どうして将来私を外国語通訳にさせたいの?」と聞きました。次は父が心の中にしまっていた忘れがたい昔の事を述べたものです。

 一九四三年、私は蘇州美術専門学校卒業後、故郷の武漢に帰ってある会社で広告などをかいていた。当時家の附近にはたくさんの日本人が住んでいて、室田豊四郎夫妻はちょうど隣に住んでいた。室田先生は油絵画家で、徴兵されて中国に来てから戦争を嫌悪し、自分から進んで軍隊を離れた。先生は私が美術を勉強していることを知りとても喜び、自ら日本語と西洋画の技法を教えたいと言ってくれた。先生の熱心な指導の下、私の日本語レベルも西洋画の技法もとても速く向上した。一九四四年、室田先生が漢陽で油絵展示会を開いた時、特に私の作品も展示して、友達に「これは私の中国学生の作品だ」と誇りをもって紹介してくれた。その時、幼い時に父を亡くした私は、室田先生が慈愛に満ちた父親のようだと感じた。一九四五年、第二次世界戦争が終わり、当時の武漢国民政府により武漢に住んでいた日本人の帰還が始まった。この時、先生夫妻の身の回りの価値ある物も全て国民党の軍隊に没収された。港へ先生達を見送りに行った時、私が先生の奥様の手に母の嫁入り道具の金の飾り物をこっそり入れると、奥様の目に熱い涙があふれました。武漢の港で別れてから恩師との音信が途絶えた。私は恩師と会って、お礼を言う機会がもう無いかもしれない。だから、榕榕が私に代わってこの願いを実現してほしいのです。

 一年あまりの努力によって、私は外国語学院日本語学科に合格し、卒業後、ある建築材料設計院で、日本語の翻訳と通訳の仕事につきました。八十年代の後期、改革開放された中国は外国から先進的な技術と生産設備などを導入したので、日本語通訳として私は常に日本へ出張するチャンスがありました。私は父の期待を持って、何度も東京の室田先生夫妻を訪ねました。室田先生と一緒に上野公園の東京美術館へ行き、先生の油絵展示を見たり、浅草の町を見物したり、友隣病院に入院されていた奥様のお見舞いに行きました。喫茶店では武漢で食べたおいしい「豆皮と蓮の実スープ」や、「西遊記」の影絵芝居を見たことなど面白い話をしてくれました。私は生まれてから祖父を見たことがないので、先生が私の祖父のような気がしました。

 九十年代末、室田夫人が亡くなられ、父はお悔みに行けず、恩師を慰めることもできないことに、申し訳ない気持ちで一杯でした。奥様のご冥福と恩師のご平安を海のかなたよりお祈りするしかしかたがありません。室田先生には子供がいないので、父は中国に恩師を迎えて安らかな晩年をと考えたことがありますが、二〇〇二年、父は突然、日本から送られた小包みと先生の弟子からの手紙を受け取りました。小包みには貴重な世界美術全集が四十冊と先生の自画像が入っていて、手紙には臨終の前、これらの本と自画像を記念として中国の弟子である周紀華さんに送ってほしいと書かれていました。父はそれを見て恩師をしのび、涙を流し、一晩中まんじりともしませんでした。

 父は恩師と連絡を取り合った頃、名古屋に住む磯部容子さんとも文通していました。磯部さんは一九七九年に「日中友好訪問団」の団員として初めて中国を訪問してから、各地で知り合った中国人と文通していました。彼女が長沙で出会った中国残留婦人が父達に日本語を教えていたことから、その人の紹介で父は文通を始めたのです。私は日本へ出張した時に父に代わって名古屋にいる磯部さんと家族を訪ねたことがあり、彼女が昆明の友人を訪ねた時、広州の私の家族や父と会ったことがあります。彼女は今も中日友好の為に西部の荒地を緑化する植樹活動や、希望小学校を建てる支援をしています。二〇〇四年の春、私は突然癌になり通訳する現場で倒れました。父も同じ日、病院で癌の宣告を受けました。五ヶ月後、八十一歳の父は亡くなり、私は家族や友達の励ましとお医者さんの懸命な治療によって今も生きています。特に感激したのは、私が癌になったことを知ってから、磯部さんは毎月国際電話で私の治療過程を聞き、自信を失くさないように励ましてくれました。最近になって彼女は打ち明けました。「西榕、実はあなたのお父様が亡くなる前、私に手紙を下さり、その時は気づかなかったけれど、その後あなたが癌治療をされていることを知り、お父様は自分に代わって娘を励ましてほしいと私に託されたのだと思ったの」と。

 父は生前、国を越えて師弟の友情を語るために日本へ行き恩師と会うことを望んでいました。今、父は天国で尊敬する室田先生と会って、私と磯部さんの友情が続くことを願っていると思います。

 (周西榕 定年退職)

 特別提供:日本僑報社・日中交流研究所
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