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昔に思いをはせる中国残留孤児と黒竜江の養母

中国残留日本人孤児の訪中団のメンバー

 中国残留日本人孤児の訪中団が8日から上海、ハルビン、北京を訪問して、中国人養父母や兄弟たちと再会した。11日には温家宝総理がこの訪中団と会見することになっている。

 今年86歳になる沙秀清さんは、再び1945年の冬に戻ったとしても、従妹の仁義ある行為を幸いだと思うだろうという。1945年冬のある日、沙秀清さんの従妹は、弱々しい息遣いの日本人孤児を抱いて帰り、沙さん夫婦に育てるように引き渡した。「この子を引き取ったことは後悔していませんし、日本に帰らせたことも後悔していません。当時こちらの条件は悪く、日本に帰っていい生活をさせたいということだけを考えていました」

 今回の「中国人民の養育の恩を感謝する訪問団」のメンバーの中には、沙秀清さんの養女もいた。この養母と養女は手がすくと手を取り合って話し、昔のことを思い出すと目には熱い涙があふれていた。

 「私が生んだ娘」

 牡丹江市寧安県に沙秀清さんが住んでいた1945年冬のある日、15歳の従妹が1歳ぐらいの女の子を抱いて戻って来た。そしてこの女の子は日本人だと言う。その当時、多くの日本人は広い部屋に一緒に集まり、この女の子の母親は亡くなる間際に従妹に娘を頼んだという。女の子を包んでいた布団の中には1枚の紙が入っていて、そこには1944年4月24日と女の子の誕生日が書かれていた。すでに結婚していた沙秀清さんはこの女の子を引き取り、長女として洪静茹と名づけた。

 沙秀清さんは「静茹はとてもやせていて、ひどい栄養不良でした。私の家も貧しくて食べるものもない状態でしたが、義父はよく卵や牛乳を買ってきて、静茹のことを特別扱いしていました」と当時を振り返る。

 1946年にハルビンに引っ越したあと沙秀清さんは3人の子供を生むが、彼女にとって洪静茹さんは自分が生んだ娘と同じだった。洪静茹さんが日本人の子供だということを知っている人はいなかったという。経済的に苦しかった洪静茹さんは中学2年で学校をやめ、道外区にあるハルビン第4百貨店で働くようになった。そして結婚し子供を生んだ。

 「お母さんに会いたかった」

 1972年に中日両国の政府が国交を回復した後、中国残留日本人孤児の日本での親族探しがスタートした。そして1988年11月28日に洪静茹さん一家4人も日本に帰る手続きを終えた。「家族はみんな娘の家に行き、座ったまま誰も話しませんでした。それは話し出すと泣いてしまうからです。数十年ですよ数十年...」。沙秀清さんは昔のことを思い出しては涙を流し、そばにいる洪静茹さんも同じように涙をこぼした。

 洪静茹さんからが日本に行ってから、まるまる3カ月間、何の便りもなかった。沙秀清さんは非常に気を揉み、人に頼んで聞いてもらった。そしてやっとのことでハルビン市の友誼賓館で電話が通じた。娘の声を聞いた沙秀清さんは一言も言葉が出ず、涙がとめどなく流れた。洪静茹さんは電話の向こうですすり泣きながら「本当にお母さんに会いたい」と言い、少し感情が収まった洪静茹さんは、落ち着いたらまた電話すると母親を安心させた。

 「あのころ電話をするのは大変でした。母は遠い場所にある他人の家に行って電話を受けなければならなかったのです。ですからそのあと5000人民元を出して電話を取り付けました」

 親孝行な娘

 日本での生活が落ち着くと、洪静茹さんは養父母にお金や物を送るようになった。「当時この辺りではまだ珍しかった冷蔵庫やカラーテレビ、ビデオまで買ってくれました、それに帰るたびにお金を渡してくれました」と洪静茹さんは言う。

 今年になって沙秀清さんの末娘が入院した。そして大手術が必要だったが、末娘はリストラされ手術の費用はなかった。「静茹はそれを知り、手術を受け、お金のことは心配するなと言ってくれました。静茹は妹の命を助けたのです」と沙秀清さんが言うと、洪静茹さんは母親の手を握ってこう話した。「お母さんは私を育ててくれました。お母さんがいなければ今の私はいません。永遠にこの恩に報いることはできません」

 「チャイナネット」 2009年11月11日

沙秀清さん(右)と養女の洪静茹さん
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