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静かに変化するパワーバランス、中国観の調整を迫られる日本

 中日関係は昨年、釣魚島紛争をめぐり、にわかに冷え込んだ。この事件は両国間に解決の難しい構造的対立が存在することを示したのみならず、両国のパワーバランスが変化する中での日本の心理的動揺を際立たせ、日本人の中国観に歴史的変化が生じつつあることも明らかにした。(文:王泰平・元在大阪総領事、中日韓経済発展協会会長。解放日報掲載)

 日本人の中国観にはこれまで3回の変化があった。最初の変化は唐朝の衰退後で、日本は894年に遣唐使を廃止した。2回目の変化は足利義満の時代で、1373年に明朝が京都に使節団を派遣し、足利幕府は中国との外交を再開した。そして1894年に清朝が甲午戦争(日清戦争)で日本に敗北したことで、3度目の変化が起き、日本人は中国を蔑視し始めた。第二次世界大戦に敗れた日本人は一時的に中国を「アジアの強国」と見たが、こうした中国観はすぐに修正された。これは1960年代以降に日本経済が高度成長を遂げたのに対し、中国は「文革」の動乱で国民経済が崩壊の瀬戸際に追いやられたことによる。こうして日本人の中国観やアジア観は近代の原点に逆戻りした。

 これら3回の変化を振り返ると、いずれも両国の国内の変化および国際秩序の再編と緊密に関わっていることが見えてくる。また、パワーバランスの変化が観念の変化を招く核心的原因となっている。日本の経済学者・長谷川慶太郎は著書「さよならアジア」で「明治維新まで中国は『聖人君主の国』と見なされていた。孔孟の道、すなわち儒教が日本の政治思想の基盤だった」「だがこれはとうに過去の物となった。戦後40年間で日本と日本人に余りにも大きな変化が生じたからだ。一方、この40年間アジアの変化は余りにも小さかった。その結果、日本と日本人は決定的にアジアを離れた」「周辺のアジア各国は『夢の島』(東京のゴミ処分場)だが、日本はその中に高く聳える超高層ビルだ」と指摘した。彼のこの話は福沢諭吉の「脱亜論」を想起させるもので、アジアを見下す日本人のメンタリティーがありありと示されている。

 しかし、やはり正にパワーバランスの変化によって、前20世紀末から現在にかけて、日本人の中国観には4回目の変化が生じつつある。日本人は新たな目差しで中国を見直し始めているのだ。中国の経済発展と軍事力強化を前に、アジアのリーダーとしての地位の動揺を感じ、自信を失い、困惑し、中国とどう付き合えばよいかわからなくなっている人も多い。中国に対する納得のいかなさ、懸念、不安、恐れ、焦慮など複雑な感情が日本社会を覆っている。中国の将来に対して日本国内にはさまざまな見方があり、中国を中長期的脅威と見なす人も多い。

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