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南沙諸島が中国領であることに疑いの余地はない

 南沙(英語名:スプラトリー)諸島は中国の領土だ。中国はこれについて十分な歴史的根拠および国際法上の根拠を持つ。(文:褚浩、陳慶鴻・中国現代国際関係研究院南アジア・東南アジアおよびオセアニア研究所助理研究員。「人民日報海外版」コラム「望海楼」掲載)

 南沙諸島を最初に発見し、命名したのは中国人だ。中国人は早くも紀元前2世紀に、長距離航海と生産活動の過程で南沙諸島を発見。南中国海の島嶼、砂州、暗礁について一定の認識も持っていた。航海の発展に従って南沙諸島への認識は一層深まり、唐・宋代には「万里長沙」など南沙諸島の古い地名が現れ始めた。唐・宋以降の多くの文献に南沙諸島を含む南中国海諸島の数十カ所の地名が詳しく記されており、島嶼、砂州、暗礁、水道の大小、地形、方位などが具体的に描写されている。

 南沙諸島を最初に開発し、経営したのは中国人だ。紀元前1世紀の『異物志』と晋朝の裴淵の『広州記』にはすでに中国の漁師が南中国海で漁をしていた記述がある。明・清代、南沙諸島で漁をする海南島の漁師が次第に増え、活動範囲も広がり、定まった操業ルートが形作られた。中国の漁師は島で樹木を栽培し、荒れ地を開墾し、島を開発した。19世紀以降の外国の航海者や侵略者も、自ら目撃した事実に基づき、中国人が南沙諸島を開発・経営していることを認めざるを得なかった。英国海軍測量局の『中国海指南』は南沙諸島の鄭和群礁について「海南島の漁師はナマコや貝殻を捕って暮らしている。その足跡は各島にあり、長く暮らしている者もいる」と描写している。

 南中国海の主権を最初に管轄し、行使した国も中国だ。明代の『鄭和航海図』に記された「万生石塘嶼」とは今日の南沙諸島のことだ。1716年の『大清中外天下全図』、1817年の『大清一統天下全図』では「万里石塘」として南沙諸島が版図に組み込まれている。1883年、ドイツは清政府の抗議を受けて南沙諸島への調査活動を停止した。1933年、フランスが南沙諸島の一部島嶼を占拠すると中国の漁師が抵抗。中国政府はフランス側に厳正な申し入れを行い、撤退を余儀なくさせた。1946年、中国政府は「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」に基づき南中国海の島嶼を回収。「永興」「中建」「太平」「中業」の軍艦4隻を派遣して4大諸島を接収した上、島で接収式典を行い、改めて主権碑を建てた。1947年、中国は「南中国海諸島新旧名称対照表」を公布。南中国海の島や岩を広東省政府の管轄下に置いた。翌年2月、中国政府は「南中国海諸島位置図」を公布。新中国成立後もこの図を用い、南沙諸島に対して主権を行使し続けた。周恩来総理は1951年に「米英の対日講和条約案およびサンフランシスコ会議に関する声明」を発表。「西沙・南沙諸島および東沙・中沙諸島はずっと中国の領土」であり、米英の対日講和条約案の影響は受けないと厳正に指摘した。1958年、中国は「領海に関する声明」を発表。「領海を12海里とする中国の規定は東沙、中沙、西沙、南沙諸島およびその他中国に属する島嶼に適用される」と明確に宣言した。この後、南沙諸島への外国による主権侵害に対し、中国政府は「争う余地のない主権を有する」と繰り返し表明してきた。

 既存の歴史的根拠および国際法の「発見の原則」「先占の原則」「禁反言の原則」に基づき、中国は南沙諸島およびその周辺海域に対して争う余地のない主権を有す。国際社会も南沙諸島に対する中国の主権を承認し、南沙諸島の中国帰属は多くの国々の地図に明示されている。例えば1954年にドイツ連邦共和国で出版された『世界大地図』、1957年にルーマニアで出版された『世界地理図集』、1970年にスペインで出版された『アギラール大地図帳』、1973年に日本の平凡社が出版した『中国地図帳』などだ。

 中国政府は一貫して強く責任ある姿勢で、極めて強い自制を保ち、かつ建設的な姿勢で「係争棚上げ、共同開発」を主張し、対話と交渉を通じた南中国海係争の適切な処理・解決に尽力してきた。中国は国連海洋法条約の基本原則と法制度を含む、広く認められた国際法および現代海洋法に基づき、関係国の二国間協議によって、平和的方法で係争を解決することを望んでいる。(編集NA)

 「人民網日本語版」2011年6月8日

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