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日米同盟、華やかな仮面の下には大和民族の打ち砕かれた心

 昨年8月の岡田克也外相(当時)に続き、松本剛明外相が今月初めに訪中した。昨年の岡田外相の訪中から間もなく、釣魚島で普通の操業をしていた中国漁船の船長を日本側が不当に逮捕する事件が起きた。今回も松本外相が訪中したその日に、一部の日本人が釣魚群島沖でもめ事を引き起こした。これによって松本外相の訪中の意義が大きく損ねられただけでなく、日本の対中外交戦略の不確定性も十分に明らかにされた。「環球」誌が伝えた。

 古来、日本の対中外交戦略は常に「コンプレックス」と「迷い」が綯い交ぜになって位置づけの困難な状態が続いてきた。日本人の「中国コンプレックス」は日本文化の中国文化への明らかな依存に由来する。日本の文字に漢字が大量に取り入れられているだけでなく、日本人は自らの古代史を研究する上でも中国の史書を合理的根拠としている。また、儒家文化圏にある日本は早くからその価値観に深く染まってきた。一方で、中華文明圏内にある日本が独立独歩の姿勢を終始鮮明にしてきた点も否定できない。

 周知の通り中日間の政治的関係は後漢の時代に始まった。当時日本は小国が林立しており、その中で比較的強大な邪馬台国が漢・魏の中央政府と緊密な関係を維持し続けていた。西暦147-188年の「倭国大乱」では、魏が張政特使を調停に派遣した。中日間の宗藩関係は5世紀の大和政権による日本統一までずっと続いた。1784年に九州の志賀島で発見された、光武帝が賜わった「漢委奴国王印」は早期の中日外交関係を示す証拠だ。だが大和民族は統一後すぐに朝鮮半島への拡張を開始し、任那や新羅を次第に支配下に置いた。これによって東アジアに中日朝関係の新たな構造が出現した。

 当時中国政府は日本の「天皇」の地位を承認していなかったが、南北対立下の中国は自国のことで手一杯で、日本勢力の朝鮮への拡張を承認せざるを得なかった。中国はまた、当時の複雑かつ緩んだ東アジアの国際関係構造の崩壊を防ぐべく努力した。この国際システムの中で日本はまず朝鮮と対等な地位の獲得を図った。次に中国と対等な地位を求める姿勢を繰り返し強烈に示したが、この願望の実現は1871年の「日清修好条規」まで待たねばならなかった。甲午戦争(日清戦争)を機に日本はついにアジアの頂点に立った。第二次世界大戦で失敗したものの、米国の支援の下でその後も輝きを保った。中国の百年間の沈滞は日本に十分な変貌の機を与えた。

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