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大陸部との統一交渉を内密に進めた蒋経国

 故蒋経国の生誕百年の日にあたる4月13日、台湾当局指導者の馬英九が執務する「総統府」の大礼堂で、生誕記念式典が開催された。同日早朝、大礼堂に掲げられた孫中山の遺影は、一時的に蒋経国の肖像画に交換された。

 馬英九は13日午前9時、蒋経国の遺影に向かって三鞠躬の礼(3回のお辞儀)を行った。馬英九はそれから挨拶を述べ、「私は幸運にも蒋経国先生のもとで6年4カ月にわたり仕事をすることができた。先生が真摯な態度で行政に臨み、台湾人民を深く愛し、勇敢で卓越した人柄で物事にあたる風格は、私に多大な影響を与えた」と語った。

 蒋経国は1910年、蒋介石の長男として浙江省奉化県渓口鎮に生まれ、「中華民国第6期・第7期総統(1978年-1988年)」を務めた。晩年の蒋経国政権は、次第に民主化路線を歩むこととなった。政党結成禁止令を犯して結成された民主進歩党(民進党)に対する鎮圧をあえて行わず、1987年には戒厳令の解除と大陸部への親族訪問解禁を実施、翌88年には報道規制を解除した。蒋経国の統治期間中、台湾経済は急速発展を遂げ、韓国・シンガポール・香港と並ぶ「アジア四小龍の一つ」と呼ばれるまでに成長した。

 「国際先駆導報」は、蒋経国が大陸部との統一交渉を内密に進めていたと報じている。蒋経国は父の蒋介石と同じく、一生涯「1つの中国」の立場を貫いた。特に1980年代後期、体調が次第に悪化し、自分に残された時間がそう長くないと感じた蒋経国は、矢も盾もたまらず、両岸の平和統一の門戸を開けようとした。

 大陸部がしきりに台湾への接近を試みた後、蒋経国は沈誠という人物を密使として幾度となく北京に派遣した。沈誠は鄧小平、楊尚昆、叶剣英などの中国共産党指導者と会談する機会を得た。楊尚昆・元国家主席?1987年3月、両岸交渉に関する以下の基本原則を沈誠に出した。

 ▽交渉の当事者は中国共産党と中国国民党とする

 ▽交渉のテーマについては、まず両党の協力問題を話し合い、その後統一問題について協議する
 
 ▽両党は中央レベルで対等な立場で話し合う

 沈誠は大陸部の意見を蒋経国に伝え、蒋経国も宋美齢に伝えた。蒋経国は熟考を重ねた末、国民党と共産党が党中央レベルで対等に交渉を行うことには同意するが、実務上の詳細については具体的な決定を待たなければならないとの結論に達した。蒋経国は1987年後半、国民党中央政府傘下に大陸部工作指導チームを設立するよう命令を下した。また、翌年1月初めの国民党中央常務委員会で、北京での交渉担当者の候補者選びについて話し合うことを決定した。しかし、蒋経国は1988年1月13日、突然咯血(かっけつ)して死亡、自ら陣頭に立ち推し進めていた両岸交渉も、無念にもピリオドが打たれることとなった。

 今は、海峡両岸の関係が再び良い方向を向き、各分野での交流が深まり続けている。蒋経国先生の生誕を祝賀すると、大陸部に対する先生の様々な恩讐の情を思い起さずにはいられない。先生はもはやこの世の人ではないが、先生を一生離れることのなかった旅人の面影、そして台湾島を覆い隠していた鉄のカーテンを大陸部に向けて開けようとした晩年の気迫は、両岸の中国人の心にしっかりと刻まれている。(編集KM)

 「人民網日本語版」2009年4月14日

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