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旧日本軍の「名将の花」射殺 楊成武

  楊成武は中国人民解放軍の有名な高級将官だ。1914年、福建省長汀で生まれ、1928年に中国共産主義青年団に加入、1929年に長汀県の農民暴動に参加し、中国労農赤軍に加入した。1930年5月に中国共産党に転入、赤軍連(中隊)政治委員、教導大隊政治委員、団(連隊)政治委員、師(師団)政治委員、師長(師団長)などを歴任し、「中華ソビエト共和国」で何度も反「囲剿(包囲掃討)」に参加し、長征に参加した。1936年に抗日紅軍大学に入り学んだ。

  抗日戦争が全面的に始まった後、八路軍第115師独立団の団長をつとめた。平型関の戦闘の際には部隊を率いて腰站地区の作戦で日本軍300人余りを殲滅、その後に*源、広霊、霊邱、渾源、陽原、蔚県、易県の7都市を奪回し、晋察冀抗日根拠地構築の基盤を築いた。1937年冬に八路軍独立第1師団長、晋察冀軍区第1分区司令員をつとめ、後に政治委員と中共地方委員会書記を兼任し、晋察冀辺区の1938年秋の反「掃討」作戦に参加。1939年冬に日本軍の大規模な「掃討」作戦の「五路合撃」に反撃する戦闘で部隊を指揮し、*源県黄土嶺で日本軍の「蒙古駐屯軍」最高司令官兼独立混成第2旅団長「名将の花」阿部規秀中将を射殺し、毛沢東同志から電報で称賛を受けている。その後、百団大戦に参加し、井○戦闘で部隊を率いて戦火の中で2人の日本の少女を助け、数十年後に中日友好の美談として語られている。部隊からは「狼牙山五壮士」の英雄たちが生まれ、中華民族の日本軍侵略への抵抗の精神的なシンボルとなった。1944年に冀中軍区司令官、冀中縦隊司令員をつとめ、冀中の人民の協力の下で、地下道戦や地雷戦、水上遊撃戦といった多くの人民戦争の戦法を創造的に運用し、平原ゲリラ戦の新たな局面を開拓した。1945年に部隊を率いて春夏の攻勢作戦を発動し、12の都市を奪回。後に部隊を率いて大反撃に転じ、16都市を奪回し、抗日戦争の勝利に重要な貢献を行っている。

  ※*という字はさんずいに「来」

  ※○という字は「耳」に「軽」の右へん

 「人民網日本語版」2009年8月4日

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