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辛亥革命にかかわった歴史上の人物

 孫文(1866-1925年)、1866年11月12日広東省香山県翠亨村(現中山市)の農家に生まれる。

 1892年、香港西医書院(香港大学の前身)を卒業した孫文はマカオ、広州で医師として開業しつつ、民族滅亡危機を救うための政治活動を始める。1984年清の最高為政者李鴻章に上書し、政治革新を提案するが拒絶される。同年、ハワイのホノルルへ行き、華僑に革命を呼び掛け、中国初の資産階級革命団体「興中会」を創立、清朝政府を打倒し、資産階級民主共和国設立を目指し始める。

 1905年、孫文は日本の宮崎滔天らの援助で東京にて興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成し、総理に選ばれる。同盟会は機関誌として「民報」を発行し革命を宣伝、民族(韃虜の駆除・中華の回復)・民権(民国の建立)・民生(地権の平均)の三民主義を主張し、民族独立と共和国の樹立を求める。同盟会設立後、孫文は帝政維持を主張する康有為や梁啓超らと激しい論戦を繰り広げながら、国内外の革命組織の発展を強化し、華僑や反清秘密結社「哥老会」、「三合会」、新軍などと武装蜂起を組織。

 1911年10月10日、武昌起義が起こり、清朝の統治は崩壊。12月にフランスのマルセイユより上海に帰国した孫文は臨時大総統に選出される。その後、南京にて中華民国臨時政府が樹立され、2千年以上続いた中国の封建帝制は幕を閉じた。1912年2月13日、革命党員は中華民国の臨時大総統の座を譲る代わりに、当時の内閣総理大臣袁世凱が清朝の皇帝・宣統帝に退位するよう促すことで同意したため、孫文は、孫文は大統領の職を辞任。8月、同盟会は国民党へ名前を変え、孫文は理事長に選出される。1913年から1914年にかけて、孫文は打倒袁世凱のため、軍隊を組織し「第二革命」を起こしたが失敗に終わり、袁世凱が帝政復活を宣言。しかし、1915年から1916年、孫文らは再び「第三革命」を起こし、袁世凱は帝政撤廃を余儀なくされる。1917年、袁世凱の後継者段祺瑞は国会を解散させ、「臨時約法」を撤廃。孫文は広州にて国会非常会議を招集し、護法軍政府を組織。孫文は大元帥となり、北伐(護法運動)の必勝を誓う。1918年、軍政府における権力掌握の為に、広西派の陸栄廷を攻撃したことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わり、孫文は広州を追われ上海へ行く。

 1920年、孫文は広東へ戻り、翌1921年非常大統領に就任するが、1922年、意見の相違から対立していた陳炯明の部下が孫文の住居を砲撃したため、また上海へ退去。度重なる失敗のため、絶望に陥っていた孫文だが、1917年にロシアで「10月革命」が起こり1922年にソビエト社会主義連邦共和国が誕生したり、1919年に中国国内で「五四運動」が起き1921年に中国共産党が結成されたりし、また新たな希望を持つようになった。孫文はソ連や中国共産党と協力を深め、中国共産党の助けのもと、国民党の改革に取り組む。1923年2月、孫文は広州に戻り、大元帥府を再建。1924年1月広州で中国国民党第一回全国代表大会を開催し、「連ソ容共・労農扶助」の三大政策実行を宣言し、当初の三民主義から新三民主義への方針転換を果たし、中国共産党と国民党が協力して政治を行う基礎を築いた。そして、中国国民党を、労働者、農民、小資産階級、民族資産階級のための革命連盟へと改革。その後、中国共産党員の助けと民衆の支援のもと、黄埔軍官学校を設立し、北伐の準備に積極的に取りかかる。北洋軍閥直隷派の首領・曹コン(コンは金へんに昆)を倒した馮玉祥は孫文を北京に招待。 孫文は北上し天津に着いた時に重病を患い、病気を押しながら北京に着いた後、1925年3月12日この世を去った。


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