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【第21回】
「日本人研究者の交流の場を北京に作りたい」。北京大の大学院生、山口直樹さんが大きな夢に向かって立ち上がった。目標は、日本人の新しい中国研究の流れを創りだしていくこと、そして日本と中国の知の共同空間を立ち上げていくこと。山口さんの立ち上げた学術交流会ではさまざまな分野の研究者が招かれ、多岐にわたるテーマの講演が行われてきた。興味がある人は誰でも参加することができるという。今回は、学術交流会にかける思いとともに、ご自身の研究テーマである「近代日本の植民地科学技術史」についてもお話をうかがった。
南満州鉄道株式会社(満鉄)は、日本の植民地国策会社として1906年に設立されました。日本は当時、日露戦争を経て、中国東北部への本格的な進出を強めていました。私の研究しているのは、満鉄が持っていた科学研究所の歴史です。
この研究所はまず、満鉄の総裁だった後藤新平によって1907年に関東都督府試験所として設立されました。1910年には、満鉄のなかに移管され、満鉄中央試験所となります。当初は、衛生、生物学関係の研究を細々と行っていましたが、1920年代あたりから組織改革を繰り返して、大豆から燃料をつくったり、オイルシェールの技術開発をやったり、石炭液化の研究をやったりと、「満州」の重工業化を促進するような性格を強めていきました。つまり、この研究所は、日本がもっていた植民地最大の工業実験室といっていいものだったですが、最後は、日本の敗戦によって1945年8月9日に中国東北部になだれ込んでくるソ連軍に接収されるわけです。
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満鉄研究所の接収にかかわった研究者たちと |
研究所が接収された時の中央試験所の所長は、大阪大学工学部長を務めたこともある丸沢常哉という人物だったんですが、非常にすぐれた対応を行ったのです。敗戦のとき満鉄の上層部は、ソ連や中国に接収されるぐらいなら研究成果を渡さない方がいいという判断で、資料を燃やすように指示している部局が多かった。しかし、丸沢常哉という人は、そうした指示に逆らってまで、満鉄中央試験所の研究成果をそのままソ連や中国に引き渡そうとしたんですね。丸沢氏は、「科学研究の成果は人類共通の遺産だ」と考えていたようです。これはたとえば731部隊のような、研究成果をいちはやく廃棄し、責任者がすぐに「内地」に逃げ帰るというような対応とは対照的なものでした。
1949年に新中国が成立したとき、中国側は国家として、技術者とか医学者のような専門知識をもった日本人をひきとめて新中国の建設に貢献してもらうような政策を取っていました。だからこういう残留技術者や医学者の待遇はそれなりにきちんとしたものでした。丸沢氏は結局10年間、中国に残留して中国人技術者の養成などに携わり、1955年に日本への帰国を果たしています。
その間、満鉄中央試験所は、ソ連、中国へと接収され、現在は大連化学物理研究所として現代中国の物理、化学関係の研究では中心的な研究所になっています。だから中国側の満鉄中央試験所の研究員たちへの評価も単に侵略者というふうに切り捨てているものではなく、「彼らは日本帝国主義のために知識を使ったが、彼ら自身は帝国主義者ではなかった」というような彼らの存在そのものは否定していない評価なのです。
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現在の大連化学物理研究所 |
世界的にみても珍しいケースだと思います。私としては、この科学研究所の研究内容をより詳細に調査することを通して、この科学研究所が「満州」ではたした役割や新中国成立以後に与えた影響といったところを明らかにしていければと思っています。
その後はさらに、「中国における帝国日本の学知」の問題に取り組む必要があると考えています。この問題にはまだ大きな空白領域があります。たとえば当時の日本によって設立された満州医科大学や旅順工科大学、さらには日本占領下の北京大学といったものに関する歴史研究は、実は基本的な資料すらまだあまり確認されていない状況なのです。この空白領域を埋めて日本や中国の学術界に貢献することが私の課題です。
またこの課題は、21世紀の脱植民地主義・脱近代という課題ともつながっています。「近代化」というと無条件によいものとして語られたりするんですが、もともと「近代化」のなかには暴力性や植民地主義が含まれています。戦後日本は植民地を失って植民地帝国ではなくなりましたが、植民地主義は現在も日本社会に依然として根強く残り続けています。諸民族の共存・共生のためには、この近代の特質である植民地主義を克服しなければなりません。日本の「近代化」の中心には帝国日本の学知があったといえるわけですが、それらと日本の植民地だった地域との関係を視野に入れることにより、現在も継続する植民地主義から抜け出る方策を探ることが私の課題です。