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【第35回】
北京友諠商店の一角にそのお茶屋さんはあった。小さな店の片隅に飾られたモノクロ写真に目をやると、そこには周恩来総理の姿が。隣には若い女性が写っていた。その女性、中山真理さんは1965年に両親と共に中国へ渡り、日本と中国を行き来しながら、文字通り「日中の架け橋」となってきた。これまでやってきたことは「人ができないこと、やらないこと」と総括する中山さん。道なき道を切り拓いてきた波乱万丈の人生を伺った。
65年に日本のある代表団が北京の西郊外の空港に到着したときのものです。周総理とは、当時人民大会堂で開かれる宴会で何度もお会いしました。宴会場に入ると、テーブルに注がれて置いてある茅台酒(マオタイ:中国の銘酒)の香りがしてきたのを覚えています。だからいまだにマオタイを嗅ぐと条件反射的に人民大会堂の情景が思い浮かぶんですよね。
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高校卒業後すぐに親の仕事のために訪中したんですが、その頃は宝塚に夢中で、親が中国に行くといった時、宝塚が観られなくなると思うと悲しくて後ろ髪を引かれる思いで北京に来て、語言大学で学びました。宝塚へは小学校の2年生か3年生の頃から母親に連れられて観に行っていて、タカラジェンヌになりたかったんです。ずいぶん後になりますが、宝塚歌劇団が北京に2回公演に来た時、ご縁あってコーディネーターをさせて頂きました。
文革は66年に始まりましたが、その前から政治の風がだんだん変化してきて、66年の8月に両親が危ないからって帰ったんです。日本人の軋轢(あつれき)の中で、帰国するのが一番簡単だったでしょうけど私は残りました。普通の日本人がいなくなっていって、「革命的な日本人」ばかりになり、私はブルジョアだとか、アメリカのスパイだとか言われました。そういうことを言う日本人はおかしい、日本の大多数じゃない、私みたいなのが普通の日本人だって言いたくて残ったんです。他の日本人は長いものに巻かれていましたが、私は村八分にされました。
毎日楽しいことは何もありませんでしたが、でもその分、語言学院の外国の留学生たちと知り合いになれました。ラオス・カンボジア・アフガニスタン・スリランカ・インドネシア・南ベトナム・北朝鮮・ベネズエラ・スペイン・アメリカなど、あとカストロの親戚という人もいましたよ。みなさん政治的な背景から半分亡命のような形で来ていて優秀な人たちでした。口先の「革命万歳」ではなくて、体を張って国のために苦難を乗り越え、ひと休みする場所として中国にやってきた人もいました。そんな人たちから、人はそうやって体を張って生きていくものだということを学びました。よく考えるとこれらの国のほとんどがこの40数年の間に「戦争」をしています。当時の友人達の消息はほとんどわかりません。日本は本当に幸せな国なんだと感謝しています。
68年に「長安号」という中国の貨物船に乗って天津から帰国したんですが、その「長安号」の船長さんの推薦で、中国語ができる人を探していた中国船舶代理店会社に入ったんです。ここで日中貿易に携わるわけですが、日中貿易を語っていくと日本と中国は切っても切れない縁があるんですよ。でも悲しいかな、先人の努力がきちんと語り継がれていないんですね。
日中貿易を一番最初に始めたのは鈴木一雄先生(日中貿易促進会元理事長)という方でした。
1949年、鈴木先生は共産党政府と貿易を始めようと、密書を香港経由で天津に送りました。当時はまだ国民党政府でしたから、見つからないようにお箸に穴をあけて、中に密書を隠して届けたそうです。この話をたまたま、実際に密書を届けた在日華僑の人から聞けたんです。すごいロマンだと思いません?鈴木先生は中国側と貿易交渉する一方で、日本では当時の八幡製鉄所の稲山社長に日中貿易の必要性を説いたんです。「中国は新しい国ができます。一番最初に必要なのは鉄鋼です。鉄がなかったら国づくりができない。応援してください」と。その説得に稲山社長が応じたんですね。
その鈴木先生が65年に病気の治療のため北京にいらしていたんです。私は日中関係の歴史を聞きたくて毎日のように鈴木先生のお宅に通っていました。
68年に日本に帰国した時は、もう中国に行くチャンスはないだろうと思っていました。ところが日中が国交回復する1972年に、朝日新聞で「世界青少年交流協会が日本青年代表団を中国に派遣、団員募集」という記事を見て、嬉しくなって早速応募しました。試験前には日中交流の歴史の本を読んで、それはもう一生懸命勉強しましたよ。そのおかげで口頭試問では質問に全部手を挙げて、先生方から「あなたもういいです」と言われました。それほど行きたかったんです。それに合格して、8月に1カ月間、中国を訪問しました。その翌月には国交回復ですよ。