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【第39回】
中国を代表する花、牡丹(ボタン)。はなやかで美しいその姿は、古くから人々に親しまれてきた。だが自然科学史研究所の久保輝幸さんの研究によると、牡丹に対する中国人のとらえ方は、唐代のある時期を境にして大きく変わったのだという。中国の牡丹観をひっくり返すこの研究は、亜洲医学史学会のHonorable Mentionを獲得。中医学や漢方に影響を与える可能性もはらんでいるとされる。牡丹に秘められた謎を聞いた。
このような研究は古くからあるんですが、ご存知の方はあまりいらっしゃらないと思います。特産品についての学問だと思われてしまうこともあるんですが、実は、「名」と「物」の対応関係を調べる学問です。名前と名前が指す物との関係は時代や地域によって違うことがあるんですね。名物学は、これを整理し、「ある時代のある場所で使われているこの名前は現在のこれを指している」ということを明らかにする学問です。
 例えば、儒教古典の一つ『詩経』には多くの植物名が出てきますが、その中に「蘭」があります。ところが、この「蘭」は皆さんが知っているランではなく、日本でフジバカマと呼ばれている植物のことだとされています。「名」と「物」との対応関係が時代によって異なるケースですね。また日本人は毎日のようにニンジンを食べますが、中国語の「人参」は朝鮮人参のことです。日本料理のレシピに出てくる「ニンジン」を中国語でそのまま「人参」と訳せば、「日本人は朝鮮人参を料理に使うのか」と誤解されてしまう。「名」と「物」の対応関係が地域で異なるケースです。
名物学は伝統的には、訓詁学と呼ばれる分野の一部で、主に、儒教教典に出てくる動植物名が一体何であるのかを研究するものでした。しかし、現代社会に広く役に立つという意味では、生薬研究が一番だと思います。漢方薬を調合する時に、配合される植物を曖昧にしておくことはできません。そのために現在では、中国では『薬典』、日本では『薬局方』と呼ばれるような、国家が定めた規範があるんです。そういった規範を作る前に、古い文献に記録されている薬草が近代植物学の分類とはっきり対応させていかなければいけない。
日本や中国に古くからある植物の呼称を、その標本とともに近代植物学の学名とリンクさせることで、地域によって違っていた呼称を統一し、混乱を避けることができるようになった。薬草の名称が統一されれば、一つの名称につき一種類の植物が対応するので、科学的な研究ができるようになり、いろいろな有効成分も発見、記録されるようになりました。これは主に植物学者や薬学者の成果です。しかし、先ほど述べたように時代や地域によって植物の呼称は異なっていたものがあるのですから、医薬関連の古い記録を見る際、そこに出てくる薬草の名前は現在と同じものを指しているとは限りません。その分析作業も名物学の一部と言えると思います。
昔の文献に出てくる「牡丹」は今の牡丹じゃないのではないかという話は、北村四郎という植物学者が一言だけ触れていましたが、確証がなかった。それを茨城大学の真柳教授から聞いておりましたし、かつて卒業研究として大川さんや石下さんといった方がすでに研究していました。また江戸時代の狩谷エキ斎がすでに牡丹の問題に気づき、『箋注倭名類聚抄』で論述していましたが、今では完全に忘れ去られてしまっています。そこで、「牡丹が怪しい」ということは頭に入れてはいたんですが、一方で、それを証明できる史料は出てこないだろうと思っていました。牡丹は有名な植物ですし、千年以上も日本人や中国人がそういった文献を見てきていますからね。いまさら新しい史料が出てくるとは思っていなかった。
中国に来て、自然科学史研究所の羅桂環先生の指導のもとで、宋代の『牡丹譜』をたまたま研究することになったんですね。その時、「牡丹はどうして中国人に好まれているのかな」と疑問に思うようになった。それで、牡丹はいつ頃から中国人に好まれるようになったのかを調べてみたんです。すると、多くの学者が唐代(618-907)に突然、中国人がボタンを好むようになったということを指摘していました。唐代以前でも医薬書には出てくるんですが、文学作品に牡丹という名称はまったく出てこないんです。このような劇的な変化があったんですね。
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ボタン(自然科学史研究所の中庭にて撮影) |
結果的にはそういう仮説にたどりつくのですが、その時点ではまだ、「牡丹はやっぱり怪しいな」という段階です。その後、医薬文献の中で牡丹がどんな風に書かれているのかを丁寧に読んでみたんですね。すると、やはり昔の牡丹と今の牡丹はちょっと違うという感じが強まってきた。さらに調べてみると、南朝(六朝)の陶弘景が書いた『本草経集注』に、今まで誰も注意していなかった「巴戟天(ハゲキテン)は牡丹に似ている」という一文を見つけました。でも巴戟天という植物は今のボタンには全然似ていない。「これは明らかにおかしい」と確信を持ちました。また、彼は「牡丹は東の方にもある」と述べています。彼は江南の人ですし、当時は南北朝時代だったため、北方の状況はほとんど知り得なかった。となれば、東の方とは彼の出身地周辺のことと想像できますが、このあたりにも野生のボタンは生えていない。
そのことを示す文献はほかにも見つかったんです。南北朝時代の文人で謝霊運という人がいました。この人は薬草が好きだったようで、いろいろな山を歩いて『遊名山記』という本を書いた際、ついでに、そこにある野生の薬草も記録していた。その佚文に、「永嘉(温州)に牡丹がたくさん生えている」といった記述があるんです。ところが、そんなところに野生のボタンがあるはずはない。野生のボタンは主に中国の西北部に生えています。温州のように高温で湿った土には生えないんですね。
一方、日本にも不思議な記載がありました。『出雲国風土記』という本にやっぱり、出雲国(島根県)の産物として「牡丹」が挙げられている。でも日本に野生のボタンは生えていません。日本本土と中国の江南は温暖湿潤で気候が似ているんですよ。中国の江南でボタンが栽培されるのは中唐以降なので、当時の技術や品種では日本で簡単に栽培するということはできなかったと想像されます。