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【第39回】
当然、そういう疑問が出てきます。そこで、日本の史料も調べてみたところと、平安時代に書かれた『本草和名』という生薬の文献に、牡丹は当時「ヤマタチハナ」という和名があったことが記録されています。その名称は、今の日本では「ヤブコウジ」ともいわれる植物の別名となっています。そのヤブコウジの植物学的な特徴を、中国の古い医薬文献の記載とどれだけ一致しているかということを照らし合わせると、ほぼ合致するということが確かめられた。
また、中国の資料だけを見ても、「昔の牡丹」とヤブコウジとを関連付けることができました。初唐の『新修本草』の記載によれば、牡丹は当時、「百両金」とも呼ばれていました。ところが宋代以降、百両金は牡丹とは区別され、単独で記載されるようになった。この百両金という植物名は、現在中国でヤブコウジ属(紫金牛属)の一種の名称となっています。
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ヤブコウジ |
どういった形でそれがすり替わってしまったのかというのは重要な所なんですけれども、それに関するはっきりとした史料は実はないんです。ただ牡丹の花がきれいだと初めていわれ始めたのは盛唐、玄宗皇帝(685-762)の宮廷でのことだったらしいんです。後に書かれた『松窓雑録』の記載によれば、「木芍薬は玄宗皇帝の宮廷で初めて栽培されるようになった、つまりこれは今の牡丹である」と書かれている。つまり、これは、今のボタンを昔は牡丹とは呼んでいなかったということを示唆しています。
その後、玄宗皇帝とその妃楊貴妃は安禄山の乱というクーデターに遭い、長安から四川に逃げることになります。唐詩に牡丹という名前がはじめて出てくるのは王維などの作品で、まさにこの前後のことなんですね。私は実は、このクーデターが大きなターニングポイントだったのではないかと思っています。
最初のすり替わりは宮廷の外で起こったんです。クーデターの100年くらい前に宮廷医が書いた『新修本草』に、「今、都(長安)の人たちが薬として使っている牡丹は本物の牡丹ではない。それには根に臭気がある」ということが書かれているんです。実際、牡丹の根にはぺオノールという独特な匂いを発する成分があるんですね。逆に言えば、「昔の牡丹」と「今のボタン」が同じものであれば、本物にも匂いがあると書いてあってしかるべきところです。ところが、「(偽物には)臭気がある」ということが書かれていたんです。とすれば、都の町医者が使っていた牡丹は今のボタンであり、宮廷医たちはそれが偽物だと認識していたという疑いが出てきます。
長安の周辺は実は野生のボタンの産地なんです。逆に、ヤブコウジはあまり生えていない。つまり長安の市民は、本物の「牡丹」の根が手に入りにくかったので、今のボタンの根を取って代用していたのではないでしょうか。実際、今のボタンの根には有効成分がかなり含まれています。使ってみたら意外とよく効いたということもあったかもしれません。
植物学的には全く違いますし、とくに地上部を見るとまったく違う植物です。ところが根だけは似ているんです。どちらも根が赤味を帯びている。私の実家にも、自然に生えてきたヤブコウジの仲間がいくつか生えていたので、私にとって幼い頃から馴染みのある植物でした。そこで帰省した折に掘り起こし、その根を洗ってみたところ、それは、想像以上に赤かったんですね。いよいよ確信がもてました。
中国では早い段階から医薬が分離し、採薬や販売を行う人と薬を使う医者が分かれていました。ですから医者が知っていたのは主に、植物の一部を切り取り、加工したものだけだったんです。「今の牡丹」の根だろうとヤブコウジの根だろうと、外見が似ていれば区別がつかない。当時から偽物の生薬というのは出回っていまして、昔の薬物書を見れば「ここを見て見分けろ」というようなことも書いてある。宮廷医たちが書いた先ほどの『新修本草』というのも正しい生薬を規定し、偽物を排除することが一つの主要な目的だったんです。