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現在位置:人民網日本語版>>日本からニーハオ!>>「環境の守り人」の中古車との縁 劉勝梁さん
(9)「在日中国人医師協会」の銭勇理事長
医学を学んだ人だからだろうか、銭勇さんの第一印象は、頭が切れ、言葉にぬかりがないという印象を受けた。国内で外科医として9年 間働いたのち、業務能力をより高めようと、ためらうことなく日本へ。
(8)横浜山手中華学校の潘民生校長
横浜山手中華学校は百年の歴史をもつ有名な中華学校だ。同学校は1898年、孫中山(孫文)の呼びかけにより開校されて以来、日本社会および華僑社会に多くの人材を生み出してきた。
(7)中国情報サイト「サーチナ」の社長 端木正和さん
端木さんを取材に尋ねた日、サーチナの新しい広告用パンフレットが印刷されたばかりだった。パンフレットの表紙にあるキャッチコピーは、これまで使われてきた「中国への扉、サーチナ。」ではなく「アジアへの扉、サーチナ。」に変更されていた。
(6)「BAIDU」の日本代表取締役 陳海騰さん
陳海騰さんは、自分への挑戦が好きな人だ。陳さんは大学卒業後、中国国際旅行社でガイドとなる。ガイドの経験は、接客サービスおよび、突発的状況への対応能力を鍛えるのに役立った。
(5)「中文導報」の社長 楊文凱さん
電話をするたび、楊文凱さんは受話器の向こうでいつも忙しく働いているように感じた。早口で話し、慌ただしく動きまわる。それが彼に対する第一印象だった。このような感じは、テンポの速い日本社会と、競争の激しい中国語メディア業界に、とてもマッチしていると感じた。
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【第10回】

    劉勝梁(リュウ・シェンリャン)さん:1982年に職業高校を卒業後、黒龍江省林業局で技術員となる。1987年に日本留学。1989年に日本流通経済大学で流通情報学を専攻。1993年に同大学の大学院、1995年に博士課程に進む。1998年に博士課程修了後、同年、株式会社躍華(YOKA)を設立する。

    劉さんは中国で林業関係の技術員を務めていた。これも環境保護事業の一環といえるだろう。日本で長年苦労を重ね、ようやく会社を設立するに至る。その業務内容のひとつが中古車の改造。使えなくなったものをお宝に変える。これもある意味では環境保護に貢献しているといえるのではないだろうか。「自分は環境の守り人になる運命なんですよ」と劉さんはいたずらっぽく笑いながら語る・・・。

    ――当時、どうして仕事を辞めて日本へ留学しようと?

    職業高校卒業後、黒龍江省の林業局で5年間、伐採の技術指導に携わりました。毎年、「労働模範」に選ばれ、黒龍江省の林業関係ではちょっと名が通ってたんですよ。23歳の時に、林業局で最年少の党員および副科クラスの幹部になりました。仕事の面では比較的順調でしたね。でも、営林技術の面があまり重視されていなかったので、自分の長所を生かすことができないな、と当時は心の中で漠然と考えていました。あと、自分を充実させるために何かにチャレンジしてみたいなという思いもあり、日本への留学を決意したんです。

    ――日本へ来たばかりの頃は苦労も多かったのでは?

    今振り返ると、あの頃は本当に大変でした。でも、当時はそれほど大変には感じませんでした。あの頃はとても充実していたと思います。日本に来た当初、最初に始めたアルバイトが新宿の新聞配達でした。毎日朝3時に起きて、7時前に配り終えないと、店主から怒られるんです。配達中に時々足が動かなくなりましたよ。配達を終えるとすぐに日本語学校に駆けつけ、午後の授業が終わったらまたアルバイト・・・。そんな生活を一時していました。千葉県船橋市にある日中文教協会の船橋寮に引っ越してからは、寮費が1カ月に1万5千円と、割りと安いので、バイトをしながら学費を稼ぐことができました。パン屋さん、中華料理店、JTB旅行社でバイトをし、一日も休まない生活が1年半続きました。そして日本流通経済大学に合格したんです。その時には手元に1002円しか残っていませんでした。その時の気持ちは物悲しくもあり、とても複雑でした。今思えば、日本に来てから生活のために、バイトをしたり、露店を開いたり、会社を設立したり・・・数多くの経験をし、たくさんの収穫を得ました。かつて、もう家に帰ろうか、と諦めたくなる時もありましたが、いつも目に見えない力に背中を押されて前に進んできました。そうやってなんとか持ち堪えて今日までこれたんです。

劉勝梁さん


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