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(31)立命館孔子学院の周瑋生院長
周イ生氏に会ったことがある人は皆、その上品で穏やかな性格に感服させられる。周氏は日本初の孔子学院である「立命館孔子学院」の院長を務める工学博士であり、世界の孔子学院の事業を推進し、模索しながら実践を行っている。周氏は浙江大学熱物理工学部を卒業後、大連理工大学で研究生(院生)として学び、その後選ばれて日本に留学した...
(30)経済学博士、NPO法人日本黒竜江省経済文化交流促進協会の何治濱・副会長
海外にあっても、何さんは故郷の経済建設と人々を忘れない。2009年、何さんは日本にいる黒竜江省出身の友たちと、NPO法人日本黒竜江省経済文化交流促進協会を設立した。この協会を通じて、日本の黒竜江出身者の生活環境を向上し、日本と黒竜江省の経済交流を促進したいと望んでいるという。
(29)中国語教室・ビーチャイニーズの高瑩雪校長
高瑩雪略歴:上海外国語大学ロシア語科を卒業後、1997年に来日。語学学校でゼロから日本語を学び、東京大学に入学。東京大学卒業後、日本企業の職場環境が自分に合わないと感じ、東京で「中国語教室・ビーチャイニーズ」を設立。数年間の苦労を経て、学校は大きく成長し、現在は新宿、新橋、池袋、飯田橋の4つの分校を有する。
(28)「80後」の留学生の現実と夢 早稲田大学の博士生・趙新利さん
趙新利さんは開口一番にそう語った。「35号投手温家宝」という本が 2008年に日本僑報社から出版され、中日両国で大きく注目された。この本の中国語版の翻訳者が、早稲田 大学政治学研究科の博士生、趙新利さんだ。
(27)映画「非誠勿擾」でウーサンを演じたウ逸聡さん
馮小剛監督の映画「非誠勿擾」は、北海道の美し い自然風景と、誠実でやさしい北海道の人々が印象に残る映画だ。映画に登場する役の一人、「北海道在 住」の「ウーサン」は、物語において大切な役割をもつ役柄だ。最後にウーサンが涙を流すシー ンは、感動的で、いろいろなことを考えさせるシーンとなった。
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                       --デロイトトーマツFAS株式会社シニアコンサルタント・楊旭東さん

【第32回】

    楊旭東略歴:北京航空航天大学・製造工学科を卒業。1999年に日本へわたり、東京工業大学で材料学の研究をスタート、工学博士の学位を取得後、日立製作所中央研究所でハードディスクの研究開発を行う。その後、金融業に従事している。

    中国から日本へ、飛行機の製造から材料研究へ、技術開発から資本市場へ、楊旭東さんは人生において大きな転換を何度か迎えている。傍から見ると、彼の転機は皆、飛躍につながっているように見える。しかし、簡単なように見えるこの飛躍は、どのようなプロセスを経たものなのだろうか?楊さんはどのように人生のかじ取りをしてきたのだろうか?

    ――工学博士であるあなたが、どうしてコンサルティングをしようと思われたのですか?

    初めはこの仕事をしようとは思っていませんでした。私は北京航空航天大学の製造工学科を卒業した、飛行機の製造を学んだ人間です。卒業後、国有の航空企業で4年間、自動車部品の開発を行いました。1999年のとき、海外でもっと学びたいという考えが芽生えました。日本に来た後は、元来の専門を引き続き学ぼうと思っていたのですが、日本には航空専攻は少なく、東京工業大学の教師が、材料方面の研究をするように提案してくださったんです。もともと材料に対しても興味があったので、専攻を変更しました。卒業後は順調に日立の中央研究所に入ることができました。

    その後、資本市場方面に進んだのには2つの原因があります。日立は2002年に巨額を投じてIBMのHDD事業部門を買収しました。日立に入社後、私は主に関連のハードディスク開発を行っていました。ご存知の通り、日立もIBMも研究能力の強いことで有名な会社です。ハードウェアにしても、ソフトウェアにしても欠点は多くありません。しかし、しばらく働くうちに、日立がIBMのHDD部門を吸収した際に多くの問題が発生したことがわかりました。買収後、双方の資源統合が不十分だったため、買収当初の構想にあった相乗効果がなかなか現れず、新製品発売も競争相手に遅れをとり、発売後の市場シェアも理想的ではなく、何年も連続で赤字となりました。

    このことに啓発され、企業で最も重要なのは技術でなく、資本だと考えるようになりました。利潤がなければ全て空論です。その後、中国でもかつて人気を集めた本「「The Great Game」を読み、産業発展を推し進めるための最も重要な「動力」は、技術でなく資本だと感じました。「資本の動力」については、私は門外漢です。そこで昼休みを利用して会社が購読する「Harvard Business Review」などの経済雑誌を読むようになり、この世界が面白いと思うようになりました。そして3年前の金融危機前に、新たな職業の道を選んだんです。

    ――転職のプロセスで最も困難だったことは何ですか?

    新分野に入ったばかりのころはどうしても順応できず、道に迷ったような感じがあるものです。しかし全ての物事の裏には論理があります。まず、周囲の人がどのように仕事をしているかを見て、主流にしたがっていき、彼らの行動をしっかりと見て、一定の経験がたまったあとに、自分の知識を加えていけば、基本的な判断ができるようになります。

    何か分からないことがある場合、その原因は、背後にある論理を見つけていないことにあります。何かあったら、全て一緒くたに考えるのではなく、問題を目の前に並べて、どのように解決するか、重点を取り出すのです。何が重要か、何が重要でないか。このプロセスは人によって違いますが、私の原則は「シンプル・イズ・ベスト」です。

    ――日本に来たばかりのときは、どのような苦労がありましたか?

    私は私費留学生として日本に来ました。1999年4月に来日した後、教授の指導を受けながら、8月の入学試験に向けて準備をしたんです。来日のときは50万円しか持っていませんでした。当時、東京工業大学の宿舎には中国人留学生が5人いたのですが、そのうち2人は文部省の国費奨学金、1人は松下の奨学金をもらっていました。私ともう一人の学生だけが私費でした。そのもう一人の学生は家庭の経済条件がよく、彼に「いくらもってきたのか」と聞かれて「50万円」と答えると、「それは学費を払った後の金額か?」と聞かれ、くやしくて「そうだよ」と答えました。すると、彼は驚いた顔をして「それだけのお金で、どうやったら足りるんだ?」と言いました。当時の私は谷底に落ちたような気持ちでした。

    幸いにも当時、多くの先輩が良いチャンスを与えてくれたほか、教師にも助けられました。初めは学業に精力をそそぎました。試験が終わり、合格した後、その興奮は1日で忘れ、急いで仕事を探しました。

    留学生は来日後、みな苦しいものです。北京で大学に行っていたころは、みな家からのサポートもあり、生きるためのプレッシャーに直面することなどありませんでした。しかし、日本に来てからは全てを自分でやらねばなりません。他の人に頼ろうにも、他の人も忙しく、自分より条件が悪い人も大勢います。だから、できるだけ早く環境に適応する必要があるのです。

    私は貴州で生まれ育ち、大学で北京に出てきました。貴州と北京の差は大きかったです。だから日本に来たときも、実は大きな変化が再び訪れただけのことでした。日本に来て何年も経ちましたが、1年目の収穫が最も大きかったと思います。



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