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  2003年4月30日 20:00
死と隣り合わせのSARS治療
〜広州市第一人民医院・張積慧婦長の日記から

 

  人類が初めて遭遇するSARSウイルスとの闘いで、常に第一線に立つのは医療関係者だ。広州市第一人民医院の張積慧看護婦長は、日常の任務をこなす傍ら、自らの筆で日々の出来事を綴った。これは人類によるSARS闘争史における最初の報告書とも言えるものだ。


SARS治療第一線に立つ医療スタッフ

 23日午後、隔離室に入る準備をする重慶キ江県人民医院の看護婦。綿の隔離服では体を全て覆うことはできない。そのため医師や看護婦は隔離室に入る前に面のマフラーで首をしっかりと覆っている。

 17日夜、広州医学院・第一付属病院・呼吸内科の重症急性呼吸器症候群(SARS)治療室で、医師による夜間の診察を受ける、順徳出身の患者。 特別の付添い人が入り口付近に設けられた簡易ベッドで睡眠を取る。

 18日午前9時45分、広州医学院・第一付属病院・呼吸内科の医師ら。SARS感染者の肺部X線写真を前に、厳しい表情を見せる。

 16日、広州市第一人民病院のSARS病棟で、回復段階にある患者、張積慧さんの世話をする看護婦。張さんは同院の婦長。

 18日午前11時5分、病室を巡回後、消毒作業をする、広州市医学院・第一付属病院・呼吸内科の医師。同院はSARSの専門施設に指定されている。

 24日午後1時、休憩室で食事を取る、広州市医学院・第一付属医院・呼吸内科の看護婦ら。

2003年2月15日 土曜日

 午前11時半、買い物をしていたとき、携帯電話が鳴った。病院の護理部(看護部)の馮秀蘭主任からだった。それによると、病院に重症急性呼吸器症候群(SARS)の診療区を設置することになり、私に支援に回ってほしいということだった。そして、直ちに病院に戻り、非番の看護婦に連絡を取るように指示を受けた。

 午後1時、私は病院に駆けつけた。このとき、ほかの看護婦も続々と病院に出勤してきた。午後3時にわれわれは12人の看護婦を5つのグループに分け、器材倉庫や薬品庫などから必要な器具や物資を大急ぎで準備した。午後9時を回って、私は疲れ果てて事務室に戻ったが、言葉を発する気にもならず、体はほこりまみれだった。このときになって、初めて食事を取ることを思い出した。

2月16日 日曜日

 午前11時、われわれはやっとSARS診療区で必要な物資をそろえ終えた。私は体重40〜50キロしかない女性たちが、わずか7時間余りという時間内に自分の体重より20倍も重い物資を5階まで搬入し、配置を終えたことをにわかに信じることができなかった。

 食事を取るときになって、われわれが懸命に準備を進めていた間に、病院の各部門が大急ぎで必要な態勢を整えたことを知った。夕方には、診療区の水道や電気、酸素供給、ナースコールをはじめ、ベッドやスタッフと患者の衣服もすべて準備できた。また、病室の環境区分(感染区、半感染区、清潔区)やさまざまな業務規定、責任区分、消毒隔離制度などの規定が相次いで定められた。

 午後10時前、スタッフが弁当を食べていたとき、同僚の看護婦、馮秀芳さんが自宅に電話をかけ、自分がSARS担当になったことを告げた。母や姉と弟はみな泣いていたという。しかし、馮さんは毅然と「この職業を選んだからには、後戻りはできない。私も泣いていないんだから、泣くのはやめて。心配はいらないから」と話しかけた。馮さんの母はただ毎日無事を連絡するようにとだけ言っていたという。この様子をみていた同僚は、自宅に連絡する気になれなかった・・・17-18日

2月20日 木曜日

 きょうもまた、倒れた医療関係者が運び込まれてきた。仕事はますます忙しくなり、残業時間も長くなった。点滴液の調合、静脈注射、吸痰、吸入治療、病状観察と記録、病床看護など看護婦の手足は休まる間がなく、退勤時には足がむくんでしかたなかった。病院側はわれわれに1日3食をしっかりと準備してくれるのだが、疲労は頂点に達し、空腹でも食事がなかなかのどを通らなかった。退勤後はただひたすら眠りたかった。たとえ10分でも、事務室の中でも構わないから。

 李看護婦長はこう言っていた。午後に受けた10本以上の電話のうち、1本が非常に印象に残っているのだという。それは看護婦の胡広平さんの母親からの電話で「うちの娘は何日も家に帰ってないんです。携帯も切ってあるし、いろいろ調べたらここにいるらしいことが分かったんです。元気かどうか、一言尋ねたいだけなんですよ」と心配そうな声だったという。

2月21日 金曜日

 われわれの病院から広州市伝染病院に応援で派遣されていた看護婦の梁健さんが不注意から発病してしまい、臨時診療区に搬送されてきた。同僚が先を争って、彼女を見舞ったところ、彼女は自分の状況について一言も語らなかった。そもそも、彼女が応援を命じられたとき、それを断るに足りる十分な理由があった。彼女はやせ型で体が丈夫なほうではなかった上、甲状腺障害がやっと治ったばかりだった。しかし、梁さんは親友の説得を振りきって、市伝染病院へと回った。

 私はこの闘いがほどなく終わり、病魔に苦しんだ患者が親族のもとに帰れると信じてやまない。大部分の患者の病状は好転し、きょう2人の患者が退院したことは闘いに初歩的な勝利を収めたことを証明している・・・24-25日


3月3日 月曜日

 18日連続の勤務で、皆が心身ともに疲れていた。病院側はここ2日間、心理カウンセラーとして尹平医師をわれわれのもとに派遣してくれた。尹医師は集団講義の後で、個別のカウンセリングを通じ、精神的圧力の軽減に努めてくれた。本当に時宜を得た適切な措置だと思った。一部の医師と看護婦はそこで得た知識を患者にも伝えた。患者も心理的にちょうどまいっているところだったからだ。

 私はある医療関係者が病床にいる医者や看護婦を称えるために書いた手紙を読んだ。手紙は彼らを真の勇士として称賛していた。また、ある人は患者と握手を交わし、彼らを勇気づけ、またある人は隔離措置が許す範囲内で親族を病室に招き、こうすることで医者と患者の信頼関係は温かいものへと変わっていった。また、退院した患者から感謝の手紙や応援旗が送られてきたとき、われわれは喜びを禁じ得なかった。

3月8日 土曜日

 きょうは記念すべき日だ。朝早く、鍾維農医師と梁瑞梅看護婦長がカーネーションをいっぱい届けてくれた。趙主任の指示で、若くてハンサムな男性医師の黄侃さんが、病室の女性患者に3本ずつ配った。健康を取り戻してほしいとの願いが込められたものだった。病室からは「うれしいわ」「万歳!」などという歓声が漏れた。すると、趙主任は何かを思い出したかのように部屋を出ていった。そして、戻ってきたときには大きなバラの花かごを抱えていた。そして、主任が申し訳なさそうに「がんばっている看護婦の皆さんへ」と、皆から笑いがこぼれた・・・10、18日
 
 
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