京劇の歴史

Beijing Opera's History

「京劇」という名称の由来

 かつては「京戯」「平劇」「国劇」などとも呼ばれた。また清末民初まで、単に「皮黄」「大戯」と言えば、もっぱらこの京劇を指す場合が多かった。清朝半ば以来およそ二百年の歴史を持つ、中国最大の地方劇である。

 その流行地域は中国本土のほか、東南アジア・アメリカ・北欧など、およそ中国人(華僑)の存在するところすべてに及ぶ。また、頻繁な海外公演を通じて、外国にも少なからぬ愛好者・研究者をもち、外国人による英語京劇さえ演じられている。京劇学校に留学する外国人も結構いるほどである。

 

京劇の起源

 京劇はいつから始まったか。京劇史についてはいまだに混沌とした部分が多い。京劇の起源をいつに置くかについてさえ定説がない状態である。現在の主な説を紹介すると、

乾隆五十五年(1790年)、高宗乾隆帝の八十歳の誕生祝いのため徽班が北京に呼ばれたこの年をもって京劇の起源とする説。

道光八年から十二年(182832年)にかけて、楚調(漢劇)の俳優・王洪貴、李六らが北京に進出し、徽班に影響を与えたときをもって京劇の起源とする説。

 従来の説では、北京にはこの時はじめて湖北から「西皮」が伝わり、これが徽班の「二黄」と融合して「皮黄」すなわち京劇になったと言われていた。

道光二十年(1840年)頃から咸豊末年(1861年)にかけて、俳優の出身地や使用方言などで、徽班の「北京化」が進んだ時期をもって京劇の起源とする説。

光緒の中葉から末葉(二十世紀初頭)とする説。

と、これだけの異説がある。

 結局、京劇の発生が何年からかを決定するのは、一本の川を上流・中流・下流に区分けするのにも似た難しさがある。各説にはそれぞれ根拠とするところがあり、一概に退ける訳にはいかない。

 確かなことは、京劇の主な源流は徽戯であり、それに漢劇(の前身)の要素が合流し、さらに崑曲はじめ幾多の地方劇の要素が逐次そそぎ込み、曲折を経て今日見られる京劇の形が出来上がった、という事である。

 

京劇──「地方劇」の王者

 京劇は大清帝国の首都・北京の繁栄をバックに、二十世紀後半に至るまで、一貫して順調な発展を続けてきた。

 途中、わずかな障害がなかったわけではないが、名優が輩出し(多くは安徽・湖北の出身者)、発展に次ぐ発展を重ね、わずかに光緒の一時期、河北[木邦]子に王座を脅やかされた以外は、常に不動の地位を保ってきた。また、京劇の観客層は、北京市民から皇族・満洲貴族まで多岐にわたったが、旧中国でこれだけ広い社会階層の観衆をもっていた事も他の中国地方劇には例を見ない。

 

歴史の嵐の中に揺れる京劇

道光・同治年間(日本の幕末・明治期にあたる)、程長庚(ていちょうこう)ら老生(おとこやく)の名優が輩出し活躍した時期。

清末から民国にかけて、梅蘭芳(メイランファン)ら「四大名旦」に象徴されるように京劇に於ける旦(おんながた)の地位が急速に向上した時期。

中華人民共和国成立(1949)から文化大革命勃発(1966)までの、いわゆる「十七年」の時期。

 京劇は1960年代に入っても、依然として中国文化の主導的立場にある文化の一つであった。例えば、「文化大革命」の発端は『海瑞罷官』(かいずいひかん)という新編京劇に対する批判書であり、また「文化大革命」中上演を許された八つの芝居は、すべて京劇であった。

 京劇の衰落は「文化大革命」期、伝統演目(つまり京劇のほとんど)が全面上演禁止となり、多数の名優が迫害死したことを境に決定的になった。

 1980年代はじめ、中国の開放政策が進み、西洋の音楽・映画などが大量に入ってくると、京劇を含めた地方劇全体は完全に圧倒されてしまった。

 

京劇に対する人々の好き嫌い

 中国人だからといって、京劇が好きだとは限らない。これは、世代とは関係の無い好き嫌いの問題である。そもそも、京劇の歌詞や文句は、演目によって決まるが、一般的に難しく、普通の北京の人には聞き取れない。むしろ、河北[木邦]子や河南[木邦](豫劇)の方が耳で聞いてわかるから好きだ、という北京っ子も少なくないほどである。

 

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