titlepdj.gif (4777 バイト) 2000.6.27
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緑の奇跡
陝西省北部楡林地区の砂漠化防止についてのルポ

陳嘉てい。。陳四長

現在、地球の砂漠化した土地は約三千六百万平方キロあり、百余カ国と地域の十二億余りの人口は砂漠化の脅威にさらされている。土地の砂漠化はすでに人類の生存と発展を脅かす世界的な問題となっている。

 中国では砂漠、および砂漠化した土地の総面積はすでに百六十八万九千平方キロに達し、国土面積の一七・六%を占めている。ここ二十年来、土地の砂漠化は年平均二千四百六十平方キロの速さで広がっている。砂漠化によってもたらされる経済的損失は毎年五百四十億元にのぼっている。

 しかし、砂漠化が全世界で急速に進んでいる時、中国の陝西省北部に位置する楡林地区の砂漠は、毎年一・六二%の速さで小さくなっている。これはたいした歴史的変化と言える。この変化は、人類が荒涼たる砂漠と闘う中で成果をあげることができることを物語っている。

 一 マウス砂漠の移り変わり

 筆者は楡林地区北部にあるマウス(毛烏素)砂漠に沿って探訪した。

 マウス砂漠は内蒙古自治区と陝西省にあり、楡林地区の北部にまで広がっている。楡林地区の砂漠の面積は二万四千四百平方キロで、同地区総面積の五六・七%を占めている。府谷、神木、楡林など七県の九十三の郷・鎮、百十万人はその影響を受けている。

 楡林地区林業局の李局長は次のように説明した。半世紀近くのたゆまぬ努力、特にここ十数年の急速な発展を経て、地区全体をカバーする防護林帯がつくられた。一九九六年末現在、砂漠地区の樹林・草地の保存面積は九十七万ヘクタールに達し、植生被覆率は一九四九年の建国当初の一・八%から三九・八%に上がった。自然生態環境の明らかな改善によって、長年見られなかった鳥類と野生動物が再び砂漠地区に現れた。五〇年代と比べて、砂丘の高さは平均三〇ないし五〇%低くなり、砂丘の年平均移動速度は五ないし七メートルから〇ないし一・六八メートルに下がり、砂あらしの年間発生日数は六十六日から二十四日に減り、黄河への砂の流入量は年間七六%減り、食糧の総合生産能力は十倍も高くなった。

 楡林地区のこの歴史的変化は世界に注目されている。アメリカの『タイム』誌は「砂漠にチャレンジ」と題する記事を載せ、中国の楡林地区が三十年がかりで築き上げた緑の障壁は、マウス砂漠と闘うなかで成功を収めた一つの範例であるとたたえた。一九九二年八月、「砂地の開発と利用に関する国際シンポジウム」が楡林で開かれ、参会した日本、イスラエルなどの専門家、学者百余人は当地の砂漠化防止状況を視察し、ここから砂漠化の逆転の希望と見通しを見て取れるとし、奇跡だと称賛した。国連の関係機構は前後して関係者を楡林へ視察に来させた。一九九五年、ディアロ国連砂漠化防止条約事務局長はカルポマトン・プロジェクト担当官とともに条約執行条件を視察した際、楡林の砂漠化防止は世界的な意義と価値があると評価した。

 筆者は地元のある人の案内で楡林の北にある鎮北台に登った。紅山の上にあるこの長城の要塞は高さが二十九メートルほどある。そこでは楡林の周りの砂漠化防止と緑化の状況を見るのに一番良いところである。曲がりくねって流れる楡渓河は両岸の数千ヘクタールの農地を潅漑しており、古い長城よりも壮観な緑の長城が荒れ狂う砂漠の害を鎮めている。

 説明によれば、一九四九年の建国の前に、楡林地区の樹林と草の被覆率は一・八%にすぎず、北部から吹いてくる風と砂は長城を越えて、砂漠を南へ七十余キロも移動させた。この悲しい歴史を聞いて、筆者は気持ちが重苦しくなったが、今日のマウスの変化や、楡林人が砂漠を征服するために懸命に働いていことをより深く理解することができた。

 二 砂漠退治の歴史

 楡林人が風砂と闘う歴史はまったく不とう不屈、水がしたたり落ちて石を穿つように根気よくたゆまず努力して事業を興す歴史と言える。

 数千年来、風砂が吹きつのるところで暮らしてきた人々は、生存のために想像もつかないほど粘り強い意志で風砂と闘ってきた。しかし、楡林地区からみると、組織的に、計画的に、大規模に砂漠化防止を始めたのは、一九四九年の建国後のことである。社会主義制度の樹立によって、勤労者と生産手段が旧社会から解放されたばかりでなく、旧社会では利用できなかった自然界も解放された。

 楡林地区の李雄梧副専員は次のように説明した。

 建国後の楡林地区の砂漠化防止は、大体三つの段階に分けられる。第一段階は一九五〇年から一九六〇年までで、これは風を防いで砂漠化を防止することを実験、模索する段階である。この段階の特徴は、モデルケースと国営農場の影響力によって、一部の人の「砂を見て怖くなる」、「どうやって砂漠化を防止していいかわからない」といった困難にひるむ心理をなくし、砂漠化防止活動の展開を促すことである。第二段階は一九六一年から一九七九年までで、これは集団による大がかりな砂漠化防止段階である。この段階は楡林の砂漠化防止史上非常に重要な時期であり、定辺県小灘子、靖辺県楊橋畔、神木県窩兎采当など、総合的な砂漠化防止で成果をあげたモデル地区が一部現れた。第三段階は一九七九年から現在までで、この段階では、思想を解放し、政策を緩め、投入を増やして、全地区の砂漠化防止活動を急速に進めた。

 この三つの段階のことを描写するには数百字あれば十分だが、奮闘の過程は決してこんなに生易しいことではない。各段階にも人に感動を覚えさせることがある。

 定辺県に小灘子という村がある。この村の刻苦奮闘の創業史は、全地区の砂漠化防止の初期の縮図と言ってもよい。

 共産党員の李守林さんは一九五二年に、村の二十八世帯の貧しい農民を組織して、造林互助組をつくった。彼らは節約した食糧で、二十キロも離れたところから交換してきた苗木を植えたが、あにはからんや全部枯れてしまった。そこで、「風は空から吹いて来るし、地上は砂がある。乾いた砂地には草さえ生えないのに、木が枯れないはずはない」と言ってしょげ込む人がいた。しかし、李さんは動揺することなく「木を植えず、砂漠を征服しなければ、われわれは子々孫々まで貧しくなる」と言った。失敗の教訓をまとめた李さんは、互助組の人たちにたきぎにする干し草で砂地を区切り、まず流動する砂を固定させ、それから障壁を造り、最後に苗木を植えさせた。こうして、小灘子村の最初の樹林がようやくつくり上げられた。

 一九五五年、李守林さんは村人を率いて一年間せっせと働いて、最初の農地を保護する樹林網をつくり上げた。翌年の春は、また三十余人からなる井戸掘り突貫作業隊をつくり、寒さをものともせず凍った土地で二十七本の井戸を掘り、百ヘクタールの砂地を潅漑地に改造した。村民たちも懸命に用水路を掘ったり、砂を運んだりした。こうして、一年間に百余りの一千立方メートル以上の砂丘を約百ヘクタールの農地に改造した。

 安定多収穫を実現するには、土壌を改良しなければならない。しかし、砂漠の中で土を探すのは言うほど容易ではない。いちばん近くても五キロ離れたところから土を運んで来なければならない。李守林さんと村民たちは二カ月余りせっせと働いた結果、約五ヘクタールの砂地を改造し、その年にトウモロコシの一ヘクタール当たり収量は一九五〇年前の千四百二十五キロから三千九十キロに増え、食糧総収量は倍増し、自給してなお余りがあるようになったばかりでなく、政府に余剰の食糧を納めた。

 愚公山を移すとは何か。小灘子村の人たちが砂漠とねばり強く闘ったことはとりもなおさずこの種の精神の表れである。

 三 責任者の後継事業

 建国後から今まで、楡林地区の共産党地区委員会書記が十三人、専員が十六人交替した。砂漠化防止について言えば、これらの責任者はみな適格の後継者と言うことができる。

 われわれは楡林地区で取材した時に、このことをしみじみと感じた。砂漠地区にあるすべての県では、県の責任者であろうと、郷の責任者であろうと、また村の責任者であろうと、みんなは砂漠化防止を重視し、これに精通している。

 一九八一年に共産党楡林県委員会書記に就任した石海源さんは在任した七年間に、「一包二封三禁」(砂漠化防止を請け負うこと、山を封じて樹を育てること、柳の枝でかごを編むのを禁止すること)という三つの措置をとって、楡林市の生態環境を改善する上で重要な役割を果たした。就任当初の一九八一年に、石海源さんは砂漠地区へ行って調査を始めた。調査を通じて、石さんは各郷の責任者と砂漠化防止についての三年契約を結んだ。

 この契約によれば、任務を超過達成したものは、給料を一級アップされ、農村の戸籍を持つ家族が都市の戸籍に変えられ、奨励金を発給されるほか、県クラスの労働模範の称号を授けられ、県誌に書き入れられることになっている。県政府は大衆の造林と砂漠化防止の意欲を引き出すため、「政府が統一的に企画し、各世帯が実行し、砂漠を征服した土地は砂漠を征服した者の所有となり、相続が認められる」という政策を制定した。各郷はこの政策に基づいて各村に、各村はさらに各世帯にと請け負わせた。

 全県の各クラスの責任者、各世帯の意欲はこの政策によって一遍に引き出され、全面的な砂漠化防止活動を始めた。一九八五年から一九八七年までの三年間に、征服された砂漠は約九万ヘクタールに達した。

 このほか、村から遠く離れた七万余ヘクタールの砂漠化した荒れ地を全面的に閉鎖し、自然に砂の上生えた植物が人為的な破壊を受けずに繁殖させるようにした。数年後、自然の草地では人工草場にひけを取らないほど草が生い茂った。

 石さんはまた、柳の枝でかごを編むのを禁止する措置をとった。楡林地区の砂漠では、約十三万ヘクタールの砂柳が育っている。この潅木は生長しやすく、砂を固定させる面ですばらしい性能がある。しかし、柳の枝で編んだカゴなどの工芸品は内外の人々に喜ばれている。そのため、砂漠地区では柳の枝でかごを編むことは主要な副業として営まれてきた。このような状況の下で措置をとらなければ、芽生えたばかりの弱い植被が破壊されるおそれがある。石さんとほかの責任者は利害得失を考えたうえで、柳の枝でかごを編むのを禁止する決定を下した。

 「柳の枝でかごを編むのを禁止する」措置が実行されたため、この十三万ヘクタールの砂柳はすくすくと伸びた。

 八〇年代には、楡林県の防砂林建設は高速発展の新時期に入り、九年間で三段階に分けて二十余万ヘクタールの砂漠を征服する企画を実施した。当時の楡林市党委員会副書記馮学富さんはすべての郷の企画実施を一つ一つ検査し、苗木の供給、技術指導などの面で末端組織を助け、砂漠化防止請負制の順調な実行を保証した。その結果、最初の三年間に請け負った七万九千七百三十ヘクタールの砂漠を征服する計画はわずか二年で八千七百ヘクタールを超過達成した。

 樹林と草地を保護するだけでなく、牧畜業も発展させるため、馮学富書記は、草地での放牧を禁止し、家畜を囲んで飼育することを提唱した。放牧禁止によって、草地は回復し、四年足らずで総合的効果が上がり、羊の飼育頭数が二十八万頭に増え、放牧禁止前のレベルにほぼ回復した。

 四 砂漠化防止対策

 数十年にわたる砂漠化防止の実践で、楡林地区は自分なりの整った砂漠化防止構想を形成した。

 同地区の責任者の考えでは、マウス砂漠は楡林の発展の障害ではない。楡林地区の貧しさは砂にあるが、強み、希望、富裕も砂にある。先ず、砂漠は同地区総面積の五六・七%を占めている。次に、砂漠地帯の地勢はわりに平らである。さらには、特殊な地質構造によって、かつ同地区の地下水が豊富で、かつ日照が十分であり、農業、林業、牧畜業及び関連ある加工業を発展させる条件に恵まれている。この認識を踏まえて、同地区は砂漠地区の発展計画を制定した。数年にわたる努力によって、潅漑農業を基礎とし、防護林を骨組みとし、食糧、食用油、肉類、卵、牛乳の生産を主体とするグリーン農業の新たな枠組みが一応形づくられた。

 砂漠化防止の方法と措置については、マウス砂漠の特徴に基づいて、地元の材料を使い、水を引いて砂を固定させる、用水路を掘る、井戸を掘る、風力を利用して砂を移す、障害を設ける、砂丘を移して造林するなどの方法を発明した。これらの方法は科学者や技術者によって普及、応用され、植物による砂漠征服を主とし、水、風、機械、工事などさまざま手段で砂漠化を防止する総合的構想が次第に形成された。

 また、砂漠地区の大衆も砂漠化防止の方法を多く考え出した。例えば、砂丘の風の吹く側に砂生植物で障害物をつくって砂を固定するやり方は、すばらしい効果をあげるだけでなく、使う材料も安く、普及しやすい。科学者や技術者はその方法をまとめて、さらに横式障害物、藁縄障害物、半ば隠蔽式障害物などを考えだし、効果をさらに高めた。

 実践は経験をつくり、また絶えず経験を検証し、是正している。  楡林地区は元の「喬木を主とし、喬木、潅木、草を同時に植える」方法を「草と潅木を主とし、草、潅木、喬木を同時に植える」方法に改めたが、これによって砂漠地区緑化のテンポを大幅に速めた。これは自然法則に対する彼らの認識がいっそう実際に近付いたことを表し、自然界も彼らに気前良く報賞した。

 楡林砂漠化防止研究所が一九六〇年に設置されて以来、四十一項の科学研究成果が国の鑑定にパスし、そのうちの四項が国際先進レベルに達し、十六項が国内の先頭に立っている。とりわけ「マウス砂地の生態経済型防護林帯の建設モデル研究」は、千三百八十一のサ?

                                                 『北京週報』2000年5月9日

    

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