中国語版へ

Vol.9(2008/11/5発行)

【特集】

トウ小平と中日経済交流

中国中日関係史学会副会長 張雲方

 今年は中国の改革・開放30周年で、中日平和友好条約締結30周年にもあたり、中日両国の人民が祝うにふさわしい、大きな意義を持つ年である。現在の若者には理解できないだろうが、当時の中国の改革・開放は日本の知力と財力による大きな支援を得て初めて今日のような輝かしい成功を収めたのであり、このため、中国の改革・開放と中日平和友好条約とは中日の友好協力における不朽の功績であると言っても全く誇張でも何でもないのである。

一、ケ小平の訪日は中国の将来のために参考に値する路を求めて

 1978年10月22日にケ小平氏は中日平和友好条約の締結式典のための訪日の旅へ旅立った。今回の訪問には2つの重要な歴史的な使命があった。1つは中日平和友好条約の締結を成功させること、もう1つは戦後の経済発展の奇跡を生み出した日本を考察し、中国の将来の発展のために参考となる路を探求するためだ。私が思うに、当時の経済の疲弊した中国にとっては第2の使命の意義の方がより緊迫し、重大だったろう。

 四人組を倒した後の1977年7月にケ小平は復活した。復活後のケ小平が中国の指導者と何度も考えた問題は、中国はどこに向かうべきか、中国は将来どんな道を歩くべきかという問題だった。

 1978年夏に、華国鋒、陳雲、葉剣英といった同志と意見を交換した後、ケ小平氏は当時経済を主管していた国務院副総理の谷牧と長い対話を行った。2人はいずれも、中国は改革なしには将来はないと考えていた。問題は、どのように改革し、誰を改革の参考とし、誰が知力や財力といった面で支援を行ってくれるかという点だった。比較を行った後で、2人は日本が今後の中国の発展のために参考にすることのできる対象だと考えた。理由は、中日両国はいずれも東方文化に属し、米国や英国、フランスといった西側国家と比べて互換性が大きいためだ。同時に、戦後の日本は一面の廃墟から出発し、20年にも満たない努力を経て世界第2位の経済強国となった驚くべき奇跡にもよる。ある意味で、スタートは若干似ていると言えた。これはケ小平が中日平和友好条約の締結式への出席の機会を借りて、日本の実地考察を行いたいと考えた背景だ。

 その対話で、2人は日本に高級経済考察団を速やかに派遣し、また世界から招聘した中国の経済発展に対策を提出できる外国の経済専門家を中国政府の経済顧問とすることを決定した。

 ケ小平氏の日本訪問は10月22日から29日だった。スケジュールを見るとケ小平氏の訪日には二重の意義があることがわかる。ケ小平氏は東京に3日滞在して中日平和友好条約の締結など重要な政務日程を完了した。しかしこの3日の間にもケ小平氏は日本の経済発展の理解をそのポイントにしている。氏は「中国の現代化を実現するには、正確な政策が必要で、よく学び、世界の先進国家の管理方法を我々の発展の起点とする必要がある……謙虚に日本に教えをいただく必要がある。」と率直に述べている。また「日本は古くから蓬莱と呼ばれ、不老長寿の薬があると聞いている。私の今回の訪問もそれを得るためだ。不老長寿の薬はないかもしれないが、日本の科学技術発展の先進的な経験を持ち帰りたい」とユーモラスに語っている。

 残りの4日の日程で、ケ小平氏は一心に日本の経済と社会の考察を行った。氏は日本の経済界、財政界、経済学界の有名人と会見し、彼らと経済発展や中日の経済協力などの見解について意見交換を行った。新日鉄君津製鉄所や日産の座間工場、松下電器門真工場といった日本の代表的な企業を参観。君津製鉄所では高い見学用通路に登り、広々として壮観な鉄鋼圧延の現場を俯瞰した。ケ氏は前へと圧延されてゆく鋼板を前に感情を高ぶらせた様子で「私たちもこんな工場が欲しいものだ」と語った。宝山鋼鉄工場はこのようにして建設が決定された。松下門真工場でケ氏は、現代化には電子工業が不可欠だと述べた。ケ氏は松下がリーダーシップを取って中国に投資し工場建設を行うことを希望し、その後松下は北京を選んでカラーテレビブラウン管工場を建設、ケ氏の当時の呼びかけに答えた。日産自動車での題詞(記念のために書く言葉)は「偉大で、勤勉で、勇敢で、知恵のある日本人民に学び、敬意を表する」で、新日鉄公司の題詞は「中日友好協力の道は進めば進むほど広くなる。我々は共に努力しよう」、松下での題詞は「中日友好の前途は錦の如し」となっている。

 日本の実地考察や日本政界、経済界との対話を通じて、ケ小平氏は戦後日本の経済発展の流れをはっきりと理解し、中国は必ず改革・開放を行わなければならず、一刻の猶予もない、中国の改革・開放、経済発展において日本を参考とするという構想が正しく、完全に可能性があると一層感じるようになった。ケ氏はすぐに祖国に飛んで帰って、日本の経験を中国の経済建設に応用できないのを残念に思った。南へ行く新幹線で、日本の記者がケ小平氏に感想を尋ねた際に、ケ氏は「誰かが後ろに鞭を持っていて、私をせきたてて走らせているようだ」と率直に語り、帰国する飛行機の上ではさらに興奮を押さえきれないように「私は喜びの気持ちを抱いて来て、また喜びの気持ちを抱いて帰る」、「日本を見て、現代化とは何かがわかった」と語っている。

二、大平正芳氏との4度の会見 円借款と中国経済の倍増構想

 ケ小平氏は一生の間に大平正芳氏と4回会見している。日本訪問の期間にケ氏は大平氏と2度会見した。1度目は集団での会見、2回目は単独での会見だ。ケ氏はなぜ2回大平氏と会見したのか。この答えは2回目の会見の中で見ることができる。2回目の単独会見で大平氏はケ氏に対して日本の戦後の経済発展の情況を大まかに紹介した。大平氏は戦後の日本経済の発展を経済復興期、基礎確定期、ハイスピードの成長期、多様化の時期という4つの時期に分けた。大平氏によると、経済が立ち遅れている時には、チャンスをつかんで重点的に突破を行い、有限の資金と物を最も重要な分野に利用し、重点産業に対する重点的支援を採用、いわゆる「傾斜式の発展モデル」を実施する必要があると述べた。大平氏はまた日本の経済飛躍の経験を「経済を中心とし、チャンスをつかみ、重点的に突破した」と概括し、ケ氏に極めて大きなヒントを与えた。私の考えでは、中国の改革・開放後に経済を中心とする戦略方針が出されたのは、大平氏のヒントによるものだろう。

 また会見で大平氏は日本の所得倍増計画も紹介。大平氏は、国民にはっきりした目標を与えることで初めて大衆を動員し、経済発展の合力を形成することができると考えていた。ケ氏が後に、中国経済(GDP)を2倍にするという世界を驚かせる構想を提出した際に、ケ氏自身も中曽根元首相に対して、大平氏からヒントを得たと述べている。

 1979年1月28日、中国の旧暦の元日にケ氏は米国訪問に出発した。米国へのフライトの途中でケ氏は突然思いつき、大平氏に電報を打って数日後に東京で会見することを提案し、長い会談を行った。この時の大平氏は既に日本の総理で、政務の忙しさは言うまでもなかったが、それでも大平氏は快諾した。これはケ氏と大平氏の3回目の会談となった。

 この会談で大平氏は、日本が中国の改革・開放を断固として支援し、知力や物力といった面で中国を支援する意志があると明確に表明した。中国にとってはこれは正に困難な時の援助であり、きわめて大きな支援であった。当時は西側国家は中国の改革・開放に対して様子見の態度で、支援を表明した国家は一つもなかったからだ。会見で大平氏はまた、中国の改革・開放、経済発展で日本政府の低利息の貸付、一般に言われる円借款(ODA)を利用することができると申し出た。大平氏は、中国の改革・開放で最も困難な問題は資金であることを十分理解していたためだ。その後、谷牧副総理が訪日し、円借款の問題について日本側と具体的な交渉を行い、ケ氏と大平氏の先の会談の内容を実際に具体化した。

 ケ氏と大平氏の4回目の会談は1979年12月6日で、大平氏が日本の総理として訪中した時だ。今回の訪中で中国へ長期的・低利息の円借款提供の計画が開始され、同年に500億円の借款が提供された。同時に大平氏は人材育成面で無償援助を提供することを決定し、「大平学校」と呼ばれる人材育成はこのようにして開始された。

 12月6日にケ氏は人民大会堂で大平氏と会見した。大平氏はケ氏に対して、中国の将来の壮大な設計図は何で、どのような目標を達成するつもりかと尋ねた。ケ氏は1分間ぐらい答えなかった。未来の目標は当時の中国ではまだ明確はなかったからだ。しばらく黙った後でケ氏は、我々は今世紀末に国民経済の2倍の成長を実現すると述べ、その時には「小康水準」に達し、「小康社会」に入るだろうと説明した。世界を揺るがした、当日の国際ニュースのトップニュースとなった中国国民経済の倍増というスローガンは、こうした背景の下で出されたのだ。

三、大来、向坂氏を中国の改革・開放の顧問に招聘

 計画作成(出島理論の啓発)ではケ氏の指示に基づき、谷牧副総理が計画し、世界的範囲で中国政府のために適切な経済顧問を探した。多方面との交渉を経て、ドイツのGustov氏、日本の大来佐武郎、向坂政男の3人を選んだ

 新中国の歴史上、外国の専門家、特に日本の専門家を中国国務院の経済顧問として招くことは全く破天荒な初めてのことだった。1950年代前半に中国がソ連に一辺倒に依頼した政策を実施していた際には多くのソ連の顧問を招聘したが、政府の政策決定の中心に携わる顧問はなかった。改革・開放が中国の未来の運命を決定する重要な時に、2人の日本の友人を中国政府の経済顧問に招聘したことは、中日関係史上でかつてないことであり、中日友好の不朽の業績として中日友好の歴史上に永遠に記録され、中国人民の心にも刻まれた。

 1979年1月末、旧暦の春節の期間に大来佐武郎氏と向坂政男氏は中国政府の招待に応じて北京を訪れた。釣魚台国賓館で谷牧副総理は経済関連の国務院各部・委員会の主な指導者を集めて会議を開き、大来佐武郎氏と向坂政男氏に戦後日本の経済発展と世界経済の発展モデルについて報告するよう要請した。これは中国の高官が改革・開放をスタートした後に、初めて聞いた日本人の講義であり、名実共に改革・開放の啓蒙の授業であると言えるだろう。中国の改革・開放に与えた影響はかつてないものがある。

 大来氏と向坂氏は西側国家の経済発展を米国モデル、ドイツモデル、日本モデルの3つのモデルに概括した。日本モデルは欧米モデルを参考とし、その基盤の上にマルクス・レーニン主義経済学のエッセンスを融合させたものだ。1950〜60年代にマルクス・レーニン主義の経済学者は日本で非常に人気だった。政府誘導型の経済モデルは日本のマルクス・レーニン主義の経済学派の思想に端を発する。

 大来氏はまた当時タイで設立されていた経済特区の経験も紹介した。講演の中で大来氏は明治維新前に日本が長崎に設置したオランダ貿易区の例を挙げた。江戸時代に日本は鎖国政策を取ったが、長崎で1カ所を設け、外界と隔絶し、特殊な政策を実施してオランダと自由貿易を行っており、この開放地を出島と呼んでいた。出島の例は中国の高官は初めて聞いたもので、皆新鮮さを感じた。そのため、中国の経済特区や開発区設立は「出島理論」の影響と啓発を受けたものだという人もいる。この2つの関係がどうなのかは私は知らないが、興味深い例を挙げれば、当時国務院常務副総理だった李先念の机には、確かに「出島」に関する資料が置かれていた。

 また、特区の貨幣に関する話がある。中国で特区を設立した後、特区の貨幣を発行するかどうかで論争があった。意見の一致が見られない中で、谷牧副総理は大来氏の意見を聞くことを提案した。大来氏は訪中して、説明を聞くと、断固として「私は特区の貨幣を発行するのには反対だ」と言った。理由は、中国には当時、人民元だけでも少なくとも二重の為替レートが存在し、兌換券もあり、それでも少なくとも二重のレートが存在していた。もし特区貨幣を発行したら、少なくとも二重のレートにしなければならず、中国は最終的に貨幣を統一するのだから、特区の貨幣を発行する必要はないというものだった。皆大来氏の分析を聞いて非常に道理にかなったものだと感じ、特区貨幣はこうして取りやめとなり、印刷されていた紙幣も廃棄された。

 大来氏と向坂氏が中国の改革・開放に計画を提出し、遺憾なく実力を発揮していたこの時、1979年11月8日の大平首相の第二次内閣改造で大来氏は内閣外務大臣に任命された。日本の法律では、国家公務員は他の非政府の職務を兼任することは許されていないため。大来氏の中国国務院経済顧問の職は終わりを告げることとなった。これまでの知力面での協力を延長するために、中日双方は交渉し、新たなプランを発表した。中日両国がハイレベルの経済政策決定諮問機関である中日経済知識交流会を成立するという方案だ。

 1980年に中日経済知識交流会は成立した。中国側は谷牧副総理が顧問、国務院の馬洪副秘書長が代表をつとめ、メンバーは経済関連の国務院の各部・委員会の主な担当者で、後に国務院総理をつとめた朱鎔基もそのメンバーの一員だった。日本側は大来外相が顧問、国際エネルギーフォーラム議長の向坂政男氏が代表で、メンバーには通産省、経済企画庁などの官庁の次官クラス以上の人士だった。双方のメンバーはそれぞれ20人で、メンバーは固定し、毎年定期的に1度の年会を開き、非公開、対外的ではなく、閉鎖的な環境で中国の経済改革や中日経済協力などに深いレベルで政策の交渉を行った。円借款の実施、特区の設立、保税区の配置、中国の経済体制改革、産業構造の調整、及び産業開発区のテストなど、いずれもまず交流会で討論されたものだ。中日経済知識交流会は中国の改革・開放と中日経済協力に大きな貢献を果たした。

四、「取経団」が訪日して改革・開放のために日本の経験を学ぶ

 1978年にケ小平氏が訪日して中日友好条約の締結式に出席する前に、谷牧副総理と高級経済代表団を日本へ実地考察に派遣することを相談していた。1978年10月29日にケ氏は訪日を終わらせ北京へ戻り、2日後の10月31日に、訪日経済考察団がすぐ訪日し、その素早さは尋常ではなかった。

 中国国家経済委員会と名づけられたこの訪日代表団は20人からなり、メンバーはそれぞれ重要なポストにある者だった。団長は袁宝華、顧問はケ力群、副団長は葉林、徐良図、劉昆などで、メンバーには元国家主席・劉少奇の秘書である宋季文と高崗事件で不公平な待遇を受けた馬洪など、人材揃いだった。この代表団は専門に経済発展の経験を学びに日本を訪れたため、中国国内では「取経団」とも呼ばれた。代表団は翌年、米国を訪問して考察を行い、その後ヨーロッパも訪れて同様の考察、学習を行った。

 代表団は日本に1カ月滞在し、日本の代表的な各企業を訪問、また戦後日本の経済政策の制定に参加した重要な人物と深いレベルの話し合いを行った。彼らは都留重人、館竜一郎、下村治といった各氏を招き、理論から日本の戦後の経済発展の流れを紹介してもらった。また経済企画庁長官の宮崎勇、国土庁次官の下河辺淳といった官庁の経済学者を招いて、実際の操作面から戦後日本経済の運行及び産業政策の解釈を行ってもらった。

 代表団は日本で一定期間滞在して現場で研究する方法と講義とを結びつけた学習方法を採用。重要な代表的企業では少なくとも3〜5日滞在し、企業経営層の講義を聞き、生産フローを見学、企業の管理経験を交流した。その真剣さは今日の一般人の理解の及ばぬものがあった。昼は講義を聞いて参観し、夜はノートを整理して、学んだことを総括した。こうした国民に献身する精神は非常に感服させられるものだ。

 日本には昼寝の習慣がなく、簡単な昼食の後、直ぐにスピードの速い業務を開始する。代表団メンバーは資料を整理するため、いつも夜更かしが続いた。またメンバーの多くは解放されたばかりで、文化大革命時の私設監獄や幹部学校(幹部・知識人を対象とした労働改造のための農場)から戻ったばかりで、昼寝をしなければ非常につらかったが、彼らは歯を食いしばって乗り越えた。ある時、宋季文氏はトイレに行き、便器に座ったまま眠ってしまい、トイレに来た人がいびきを聞いて彼を発見したことがあるという。

 戦後の日本の経済運営で、代表団が注目した2つのポイントがある。これが誘導型の経済政策と企業のグループ精神だ。戦後初期は一面の焦土で、人々の生活は苦しく、全てが復興を待つ状態だった。こうした状況下で日本は経済の「傾斜政策」をとり、財力と物力を集中し、国民経済の中心的な産業に対する優遇政策を実施し、国家が重点的に支援し、大きな効果を挙げた。誘導型経済政策は傾斜方針の産物である。終身雇用、年功序列などは企業のグループ精神の動力と経典となった。産業構造を見ると、日本はまず軽工業から着手し、国家の優遇政策は紡績業に置かれた。1946年末には紡績業が製造業に占める割合は23.9%、1950年には紡績品の輸出が総輸出の半分を占めるようになった。1953年に日本経済の回復期は終了、産業構造の新たな調整が始まり、軽工業の紡績工業から重化学工業へと戦略的な移転を実施した。1958年には重化学工業の産業構造が基本的に完成し、洗濯機、冷蔵庫、テレビ、自動車、造船、鉄鋼業がリードする情況となった。1960年以降、日本は経済の高速な発展の時期に入り、造船や鉄鋼、テレビといった分野で世界市場に影響を与えるようになった。1971年から経済の多様化の時代が始まり、日本の産業は重く、大きく、厚く、鈍い重化学工業の構造から、軽く、小さく、薄く、巧みな電子産業構造へと移転した。日本の経済発展の流れはクリアで、重点が際立ち、貿易立国の戦略方針で企業の配置、企業の運営、企業戦略の転換を統率してきた。中国の改革・開放初期の、「両頭在外(原料品の調達先、加工品の販売先が共に海外にある)」、「出口在先(輸出優先)」というスローガンは、間違いなく日本の経験に由来するものだと私は考える。

 1978年12月5日、「取経団」は日本での考察を成功させて帰国した。彼らはすぐに、中国の改革・開放と企業改革の実施に重要な役割を果たす政策提案報告を作成した。報告では次のように記されている。「考察を通じ、代表団の全員は共通の感想を持った。中国が4つの現代化の実現を速める希望はあるが、大きな力を費やす必要がある。」日本は「1955年から1976年までに、国民総生産が4.8倍に増加、年平均で8.7%成長し、工業生産は8.4倍に増加、年平均で11.3%成長した…」。中国は日本に学ばなければならず、「思想面から大きな解放を行い…枠組みを取り払い、タブーを打ち破り…ソ連から持ち込んだ行政的な組織管理方法から、断固とし、徹底として、経済的な組織管理形式へと変化させる決心を下す必要がある」。「日本は先進的な生産技術と先進的な管理方法を、経済の高度成長の2つの車輪だと述べており、どちらも欠くことはできない。…彼らは管理、科学、技術を現代文明の3つの柱としている…この経験は、我々が学ぶに値するものだ。」

 この報告は谷牧副総理とケ小平氏に届けられ、2人は会心の笑顔を浮かべた。こうして、中国の行政改革、体制改革、企業改革のスタートが切られたのである。

 時は流れ、改革・開放と中日平和友好条約の締結、実施から既に30年の年月が流れたが、まるで昨日のことのように感じられる。改革・開放において日本が中国に与えた支援を、中国人民は忘れることはない。

発行形式

『中日経済情報週刊』はサービス運営期間中、毎月5日・20日の月2回発行し、その後、本格的に週1回の発行に切り替わります。中日間の経済・貿易に従事する関係者をはじめ、国際的な視野に立って資源を開発したい中日政府の指導者、投資家、企業家、ビジネスマン、研究者の方々への情報サービスをご提供します。

サービス運営期間中、中日両国間に関する投資、企業招致、事業プロジェクト、業界情報など無料で掲載する関連ニュースを受け付けております。選考されたニュースについては、中日の読者にいち速く情報が配信されます。

E-mail:[email protected] / tel:86-10-65574990 / fax:86-10-65579038

人民日報社概況 | 人民網について | 日本語版について | ORI国際産学研究について | 広告受け付け | 情報調査研究 | ご意見・お問合せ

◎本刊に掲載の記事の著作権は人民網日本語版にあるか、著作権者が人民網日本語版の使用を許諾したものです。掲載された記事、写真の無断転載を禁じます。(特別注記を除く)