一週刊  第97号  2008年11月27日  
 

  羅高寿――中国を熱愛するロシア人

 
 

 
本誌のインタービューを受けている羅高寿
2008年3月23日、ロシア•中国友好協会がモスクワで催した周恩来生誕110周年の記念大会に出席し、講演した羅高寿 新華社 劉鉄芳
長年、中国に駐在していた羅高寿は、中国の美しい山水に興味を抱き、休みにはよく地方に観光に行っていた。写真は貴州省の黄果樹景勝区で観光する羅高寿とその夫人
1995年の初春、第二次世界大戦期間中旧ソ連で生活していた中国人を大使館に招待した羅高寿は、興が高じてピアノを弾いた
1994年、李鵬総理と会談している羅高寿大使

   羅高寿とは、イゴール•ロガチョフの中国名であり、彼はかくしゃくとしたユーモラスな老人である。あまりにも元気なので、どうしても76歳とは信じられない。

中国通の父親
   1920年代、羅高寿の父アレクセイ•ロガチョフは、モスクワ東方大学の三年生のとき、中国に実習に来た。彼は孫文の軍事顧問ボロディンの通訳を務め、革命軍と共に戦い、北伐にも参加した。大学を卒業したのち、1928年から1934年まで、ウルムチの旧ソ連領事館に外交官として勤務した。
   1932年にイゴールは生まれた。一カ月後、母親に連れられて、父親と会いにウルムチへ行った。4歳の時、父親がハルピンの総領事館に異動し、イゴールは母親と姉•妹と共にハルピンに行き、そこで幼年期を過ごした。
   1939年、父親は一家を連れてモスクワに戻り、モスクワ東方大学で教鞭を執った。以後の41年間、父親は中国語の講義•研究•翻訳の仕事に励み、多くの若い中国学者を養成し、数多くの文学作品を翻訳した。彼は古典文学の名著『水滸伝』•『西遊記』、そして現代文学の名著、魯迅の『祝福』、老舎の『無名高地有了名』、馬烽と西戎の『呂梁英雄伝』など多くの作品を翻訳し、大きな影響を与え、高い評価を博した。アレクセイ•ロガチョフは、ロシアの読者に初めて『水滸伝』•『西遊記』の完訳を紹介した翻訳家であった。彼はロシア語の音に中国語のよい漢字をあて、息子イゴールの中国名を羅高寿と名付けた。

この父ありてこの子あり
   父親の影響を受けた羅高寿は、中国語と中国研究を選び、モスクワ東方大学中国語学部に進学した。それはちょうど新中国が成立したばかりの1950年代の初めで、中国と旧ソ連との交流が頻繁だった時期にあたり、羅高寿がモスクワ東方大学の3年生のとき、その流暢な中国語のために、よく通訳の仕事を頼まれ、その間に多くの中国の友人をつくった。1954年から、旧ソ連を訪問した中国国家男女バスケットボールチーム、バレーボールチームの接待にも加わり、多くの選手と深い友情を結んだ。
   1956年、東方大学を卒業した羅高寿は、中国の外国専家局に派遣され、衛生部の通訳となった。1957年から1958年まで、ロシア語の『友好報』編集部に勤務し、まもなく旧ソ連大使館に招かれ、外交官としての生涯を開始した。
   1992年4月、羅高寿はエリツィン大統領により、ロシアの中華人民共和国駐在の特命全権大使に任命され、13年にわたる大使生活をスタートさせた。その任期中に中ロ関係は急速に発展し、両国関係は低迷状態から抜け出し、元首の相互訪問も実現した。1996年、中ロ両国は戦略的なパートナー協力関係を結んだ。2005年、大使の任期が終わって中国を離れる時、中国の時の外交部李肇星部長は、中ロ両国の関係が低迷から戦略的なパートナー協力関係の樹立にいたったのには、羅高寿大使の功労は無視できないと語った。
   羅高寿の外交功績はロシア国内でも高く評価された。1996年8月、ロシアのエリツィン大統領は、彼に「友好」勲章を授け、外交功績を表彰した。2002年、羅高寿はロシア連邦から「功勲外交家」の称号を授かった。

「私が見た中国の指導者たち」
   1958年、羅高寿は旧ソ連大使館の通訳に任命された。両国のハイレベル会談で彼は通訳を担当したため、頻繁に中国の最高指導者と接するチャンスに恵まれた。
   「1960年、訪中したソ連代表団は、毛沢東主席に会いに南方に赴きました。ある日の夕方、毛沢東は郊外の官邸で私たちと会談しました。会談が終わったのは夜の11時すぎで、彼に招かれて一緒に夕食を食べました。毛沢東が唐辛子を食べたようすは一生忘れられません。彼はお皿から一握りの唐辛子をとってそのまま食べました。私はたった1つで、その燃えるような辛さに耐えられなかったのに、毛沢東は眉一つ顰めませんでした……。」それから40年も経つが、羅高寿は当時の光景をはっきりと覚えている。
   しかしながら、毛沢東の通訳をするのは、そう簡単なことではなかった。彼はひどい湖南訛りで話したため、まず中国人に湖南訛りを標準語に訳してもらってから、羅高寿はそれをロシア語に訳したのだ。
   羅高寿から見れば、ケ小平は中国改革開放の総設計者で、20世紀のもっとも優れた政治家の一人である。1950年代末のある日、旧ソ連の国家バスケットボールチームが、中国の国家チームと北京工人体育場で試合を行った。驚くことにケ小平が自ら観戦にやってきて、羅高寿はその通訳にあたった。1989年にいたって、中ロ関係は低迷期を経て正常化に向かった。時のソ連外相シェワルナゼはわざわざ北京まで飛んで来て、ゴルバチョフが中国の指導者と会談するための下準備を行った。その時、副外相に昇進していた彼はそれに同行した。外交儀礼に従って、ソ連の外相がまずケ小平に紹介され、続いて羅高寿が紹介された。ケ小平は彼の手を握りながら、「あなたを覚えています。1950年代末に、通訳をしてくれたことがありますね」と言った。
   続いて5月に、ケ小平は釣魚台国賓館で、訪中したゴルバチョフと会談した。羅高寿の追憶によると、その日に、両国の指導者は長時間語り合ったという。ケ小平が最後に言った言葉を、彼はいまだに忘れられない。「過去を終わらせ、未来を拓きましょう。」

国境線問題解決の目撃者
   2008年7月21日、外交部楊潔篪とロシアの外相ラブロフは、『中華人民共和国とロシア連邦政府による中ロ国境線東部地区についての補充叙述議定書』および添付文書に調印した。それは、4300キロにわたる中ロ国境線の修正が完了したことを示すものであった。
   中ソ両国が初めての国境問題会談を行った1964年から、徹底的に国境問題を解決するまですでに40年あまりが過ぎている。この長い間、羅高寿は何回も会談に参加し、重要な役割を果たしてきた。
   1969年、ベトナム訪問の帰りに中国に寄った旧ソ連のコスイギン首相は、北京で周恩来総理と国境問題について会談を行い、双方は重要な共通認識に達した。羅高寿はこの歴史的な会談に参加した。1987〜1991年に、彼はソ連政府に中ソ国境問題会談の団長に任命された。1991年5月は両国関係の転換期となり、江沢民総書記がソ連を訪問した時、両国の外相は正式に『中ソ国境協定』を調印し、両国の国境測定委員会を設立し、最後の測定作業を完成させることを決めた。これは、中ソ国境に関する最初の国際文書であり、両国の東部国境の97%の領土紛争を解決したばかりでなく、両国の長期にわたる善隣関係のよい基礎を築き上げた。プーチン大統領が訪中した2004年には、両国の元首が共同声明を発表し、すべての中ロ国境線が画定した。
   長い期間にわたる会談の中で、もっとも大きい困難は何だったかとの記者の質問に、羅高寿はこう答えた。「一度は中ソ両国の関係に大きな変化が起こりました。どちらの国内にも流言飛語の類が現れました。ソ連では、中国は極東地区を奪おうとしているという『黄禍論』を唱える人がいました。中国では、ソ連は攻撃的•侵略的国家であると人々は言いました。今では、我々はすでにこれらの不協和音を取り除くのに成功しています。これは非常に大きな進歩です」。

引き続き中ロ友好のために尽くす
   現在、大使を退任している羅高寿は、ロシア連邦委員会の議員であり、依然として中ロの戦略的パートナー関係の発展、両国の人々の友好に尽くしている。
   2005年に彼は人民画報社の招きに応じて、ロシア語雑誌『中国』の顧問を担当することになり、3年もの間、『中国』のロシアでの出版発行に尽力している。『中国』創刊一周年の2006年、モスクワで座談会が催された。その日には大雪が降り、交通渋滞がひどかった。しかし、羅高寿は午後2時に早々に会場に着き、すべてのイベントが終わって、来客が全部帰った夜9時までいてくれた。『中国』の実行編集長の黄慧珠は、今でもそれを思い出すと感動する。
   「1992年に、ロシアの中国駐在大使だった時、知人のイギリス大使がやってきて、ロンドンには190カ所の漢方医のクリニックがあると言いました。それから間もなく、古い友人のアメリカ大使を訪ねました。彼の話から、5分の1のアメリカ人は漢方医の治療を受けていると知りました。」ロシアでは、中国の伝統的な漢方について、あまり知られていない。ここ数年、羅高寿はモスクワで漢方医センターの設立や漢方医の普及に努めている。「私は西洋医学を信じず、漢方医学を信じています。ここ15年は、私は西洋の薬をほとんど使わず漢方薬に頼っています。漢方医がロシアに広く普及するのを心から願っています」。

(文中敬称略)

(「中国画報」より)

 
     

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