一週刊  第99号  2008年12月12日  
 
 

   承徳の避暑山荘

 
 

 河北省の承徳は北京から230キロ離れ、車で行くのが非常に便利なところです。

 承徳は山に囲まれて、長城の一部分は龍のように南の山・金山嶺にうねうねと延びています。この部分の長城は元々の様子そのままで保存され、金山嶺長城と呼ばれています。秋の太陽に照られ、金山嶺長城はきらきら光っています。長城に登れば、壁に刻まれた文字が見えます。これらの文字から、金山嶺長城がいつ、どの軍隊に建てられたのかなどの情報を知ることができます。数百年も経って、これらの文字が相変わらずはっきりしています。また、形が様々なトーチカも建てられています。トーチカは普通、二階造りで、一階では6、7人が休められ、二階の小部屋は、歩哨に立つ兵士が風雨を避けるところです。

 ここに立てば、当時国を守っていた兵士の威風堂々の様子が想像できます。 こんなに美しくて、雄大な山河は絶対守るという信念も感じられます。

 長城は元々、中原にある漢民族は北方の遊牧民族の侵入に抵抗するために建てられたものですが、17世紀、長城の北の地区に住んでいる遊牧民族の満州族が中原に入って、清の王朝を作ったので、長城の防衛任務も終わりを告げました。しかし、中原に入った満州族は遊牧生活を懐かしく思い、よく長城から出て、北の草原へ狩りに行っていました。

 そこで、北京から草原へ行く途中、皇帝に休ませるところをを見つけなければなりません。北京と草原の間にある承徳は、冬が暖かくて、夏が涼しい上、景色も美しいことから、ここで宮殿と庭園を造ることになりました。したがって、承徳は北京についで、当時中国の二番目の政治文化の中心となったわけです。

 避暑山荘は560万平方メートルを占め、地勢の高低にしたがって建てられた塀は山の奥に伸び、山荘を囲んでいるように見えます。まるで縮小した城みたいです。この縮小した城に入ると、茂っている木が目に入り、宮殿を引き立たせています。屋根に、鮮やかな瑠璃瓦が光っていて、昔の繁栄の様子を今の人々に教えています。清の三人の皇帝が87年をかかって作ったこの承徳避暑山荘には、楼閣や、亭、寺、塔、廊下、橋など様々な建物があわせて120軒余りに達しています。

 この山荘は宮殿区、山区、湖の区、平原の区に分けています。宮殿区は縮小した故宮のようで、山荘の3%を占めています。山荘には天然の山や、川などの自然景色は多いです。自然景色の中で人的文化を作り、人的文化は自然景色に融合しています。

 さらに山荘の南部にある宮殿区に近づけば、だんだんにぎやかになってきました。時代劇の服を着ている人が百年前の皇族の物語を演出しています。まさか清の時代に帰ったかというような錯覚でした。

 宮殿区は元々、皇帝が政治事務を処理し、祭りを行い、外国の使者と会見するところでした。一国の皇帝として、この避暑山荘で休むときでも、国事を忘れてはいけません。

 さらに宮殿区の北のほうに行けば、湖の地区です。30ヘクタールぐらいの水面.に白いさざ波がたっています。ほとりには、中国南方地区の名所に真似て造った建築物が散らばっています。山荘を歩いて、まるで全中国を歩き回ったような気がします。

 山荘にはまた風格のあるお寺もあります。その中の普寧寺は避暑山荘の初めての皇族のお寺で、250年の歴史を持っています。寺には、42個の手のある大きな仏像が祭られています。この22メートルの仏像は、均整がとれていて、模様がはっきりしています。

 普寧寺のほかに、山荘にはまた11箇所の寺院があります。これらの寺院は各民族のために建てられたので、それぞれの特徴をもっています。他の民族の使節がここに来て参詣し、宗教活動を行った時、休んだり、活動を行ったりする場所を提供する必要があります。これらのお寺は、少数民族の文化をよく融合していました。

 避暑山荘は避暑地であると共に、人的な文化遺産にもなるので、十数年前世界文化遺産に登録されました。その観光価値は承徳避暑山荘の行き方を紹介しましょう。

 避暑山荘へのアクセス:

 北京駅、西直門、東直門の長距離バス駅では、承徳避暑山荘へのバスが30分ごとに出ています。チケットは45元。

(中国国際放送局日本語部より)

 
     

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