【NRIの視点】
U経済構造改革への取り組み(下)
此本臣吾
此本臣吾(このもとしんご)
執行役員コンサルティング事業本部副本部長
専門は機械・自動車、電機などの事業戦略
中国・アジアの事業戦略と産業政策立案

3、「労働法令元年」と中国が目指す産業構造改革
さて、先富論の恩恵を得た沿岸部でも問題は山積している。輸出の担い手である華南地区の輸出加工企業は、過酷な労働環境下で低賃金でも働いてくれる出稼ぎ労働者によって支えられてきた。清華大学•野村総研中国研究センターが毎月主催している北京での討論会において、清華大学のある著名な歴史学者は、「近年の中国の経済成長は『特殊な社会モデル』が生み出した国際競争力に支えられてきた」と論じ、その「特殊な社会モデル」について、「労働者にとっては福祉も自由もなく、利益分配は政府部門、企業部門に偏って配分されるモデルである」と断じている。このような声が諸外国からではなく、政策に影響力のある学者、つまり中国中枢内部から出てきていることに注目すべきであろう。この学者は「中国はこのモデルを破棄し、低福祉•低人権から脱皮して真の国際競争力を構築しなければならない」とも語っており、経済成長と労働者への利益分配や福祉とのバランスを重視するという考え方が明瞭になってきている。
表1 2008年施行の労働関連法規
| 法令 |
施行時期 |
法令のポイント |
| 労働契約法 |
2008年1月1日 |
・社内制度の制定・改正手続の明確化・具体化
・固定期間契約の更新回数の制限、無固定期間契約の適用範囲拡大
・契約期限に応じた試用期間の設定、労働契約解除要件の明確化
・契約解除・終止後の経済補償金算定基準の明確化 |
| 労働契約法実施条例 |
2008年9月18日 |
・労働契約を解除・終了する場合の賠償金規定
・労働契約解除事由の規定と解雇予告金の算定基準の明確化
・労働契約末締結責任負担の明確化 |
| 雇用促進法 |
2008年1月1日 |
・労働契約法の施行に伴う就業拡大、公平就職、職業教育支援等制定
・性差別、障害者差別、伝染病差別、農村労働者差別などの禁止 |
| 企業従業員年次有給休暇条例 |
2008年1月1日 |
・累計勤務期間に応じた有給休暇数規定
・有給休暇を取得できない条件の明確化 |
| 企業従業員年次有給休暇実施弁法 |
2008年9月18日 |
・勤務期間への前職企業勤務期間の組み入れ(生涯勤続期間)
・有給休暇は企業穎定により執行、休暇取得残の買い取りの是非、買い取り価格は企業が決定
・有給休暇取得残の買い取りにおける1日当たり賃金計算は、月賃金を21.75日で割る |
| 労働紛争調停仲裁法 |
2008年5月1日 |
・調停の強化
・時効の延長(仲裁:60日以内-1年以内)
・仲裁期間の短縮化(74日間-50日間)
・「一戦終局」制(一定条件の案件では仲裁は最終的解決で提訴は認めない)
・労働争議の仲裁費用は国庫負担
・企業の挙証責任の明確化(証拠書類は企業が保有) |
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表1は2008年に中国で施行された労働関連の法規を示している。労働環境の改善について2008年は「労働法令元年」ともいえる動きとなっている。なかでも2008年1月に施行された労働契約法はその最も中心的な法令で、労働者の無固定期間契約、契約解除要件の明確化、契約解除時の経済補償金の算定基準など、使用者側の勝手な都合で安易に解雇ができず、解雇される場合の補償についても正当な支払いがなされるような手続きが規定されている。また、有給休暇や労働紛争調停、不平等雇用問題の是正などの法令も施行されており、2009年以降の施行を目指して賃金条例(貨金上昇基準の規定や不払い問題への対応)や企業民主化条例(労働者側の経営への関与)など、大型の労働関連法令の審議が行われている。
低福祉、低人権に立脚する現状から脱皮するのは当然ではあるが、そのためには、これらの改革によるコスト上昇を吸収するだけ企業自身の技術や生産性の向上、つまり、中国自身の産業の高付加価値化を実現しなけばならない。図4は法定最低賃金の推移をしたもので、2005年以降は政策的に高い伸びとなっている。また、2007年の都市部の平均賃金も前年比19%増、08年の1月〜9月も18%増と、都市部の賃金も2桁増が続いてる。
市場としての中国といわれる今でも、日本企業にとって中国事業の利益の多くは低コト生産を強みとする輸出拠点から生み出されており、今後予想される労務コストの上昇どう対処するかは頭の痛い問題である。労働集約的な事業所であれば、よりコストの安い内陸地域、あるいはベトナムなどの近隣アジアへの移転を考えるか、生産性向上や原価低減活動を強化してコストアップを吸収すか、中長期的に中国の拠点配置をどう位置づけるかなど、再考する時期にきている。
一方、これらの輸出型の外資企業の進出に支えられていた沿岸部の地方政府も、自らの産業構造改革に真剣に取り組んでいる。沿岸部の経済技術開発区は産業の高度化そのもが自らの生き残りの道であり、中央の政策がどうであれコスト上昇を吸収できる産業の育成に必死である。
図5は、中国で50以上ある経済技術開発区のなかでも、天津と双壁をなす蘇州工業園区の全景である。これを見るとわかるように、この開発区が目指しているのは単なる工業集積地ではない。蘇州市の幹部が競合相手として考えているのは、シリコンバレー、グラスゴー、新竹(台湾)などの世界有数のエレクトロニクス、バイオ、IT(情報技術)サービスの産業集積地域であり、目指すところは、先端的な工場があるのはもちろんだが、研究開発機構や新しい事業を生み出すベンチャー企業、それらを支える人材を生み出す大学や高等専門教育機関、さらには世界から優秀な人材を惹きつけるだけの快適な住環境、商業サービス施設が集積する、一つの都市である。
野村総合研究所(NRI)は、蘇州やあるいは蘇州に匹敵する産業集積が進む天津経済技術開発区のような沿岸部の産業高度化を目指す都市(国際技術産業都市と称す)に対して、以下の12の項目からそのレベルを評価している。@産業集積の規模
A国際技術産業都市としてのブランド
B経済発展の成長スピード
C周辺地域の産業クラスターとの連携
D国際産業クラスターとの連携
E新技術開発を促進するR&D(研究開発)機構の集積
F豊富な労働力
G優れた経営者・技術者の集積
H土地•水•通信•エネルギーなどのインフラ
I国際交流を支援する機構•仕組み
Jベンチャー支援•特許取得などのサービス
⑿居住•都市生活の利便性
これらの評価によれば、蘇州、天津を筆頭として、青島、広州、大連の経済技術開発区が続いているが、今後の中国の産業高度化が実現するかどうかの一つの重要な着目点は、これらの開発区がどれだけ自己改革を成しるか、そのための地方政府の政策立案力と執行能力にある。このような沿岸部の各都市の「国際技術産業都市」化が進み出せば、内陸部との垂直分業的、相互補完的な連携が促進され、沿岸部では労務コスト上昇を吸収する産業が勃興し、内陸部では新たな進出企業による経済開発が進むという産業構造改革が達成される。
「労働法令元年」と銘打っても、中国の産業自身が高度化しなければ、いずれ労務コスト上昇に耐えきれなくなって労働者の福祉も人権も改善のしようがなくなるわけであるから、中国は今こそ沿岸部、内陸部が相互に連携し合った産業高度化に向けて政策を総動員しなければならない。それを思うと、蘇州や天津のような先端を走る開発区と、そうではない開発区との行政スタッフの能力の差はあまりに大きく、外資企業の誘致にしても地元企業の育成にしても、地方の行政力の格差が懸念される。いくら立派な産業開発のビジョンや計画をつくっても、それを担う行政スタッフの育成が間に合うかどうか、そこに問題が残れば、これからは沿岸部内で産業高度化に成功した地域とそうではない地域との、新たな格差問題が浮上するおそれもある。
4、新農村建設に向けた包括的支援
図6に示すように、都市と農村の可処分所得の格差も広がっている。2002年から06年までの農村の1人当たり純収入の年平均伸び率は6%で、GDPの伸び率を下回っている。農村部の生産適齢人口は4億9000万人といわれているが、都市への出稼ぎや郷鎮企業(中国の郷(村)と鎮(町)の企業)などの農業以外での就労者が1億8000万人、農業従事者は3億1000万人である。しかし、現在の耕地面積からすると必要な労働力は1億7000万人にすぎず、つまり、農村は差し引きで1億4000万人もの余剰労働力を抱えており、これらの人々は沿岸都市部の中国の経済的な繁栄とは全く無縁な生活を送っている。
農民の土地財産の法的保護が不十分であるところにつけ込んで土地の強制収用が乱用され、全国で少なくとも5000万人近い農民が土地を失ったといわれている。耕す土地を失えば都市に移住するしかないが、十分な教育を受けていない農民は職にも就けず、都市戸籍を持たなければ行政サービスも受けられない。
2006年には農村問題解決に向けた包括的な政策が打ち出され、農業税の廃止、農村の産業基盤に対する特別財政支出(2006年予算で総額5兆円)、義務教育の学費免除や技能訓練教育などの人材の育成(同、総額3兆300億円)、農村での医療保険制度、最低生活保障などの社会保障制度の底上げが始まっている。また、農村の高齢者で養老保険(年金)の適用を受けているのは1割程度にすぎず、若年層が都市へ就労に出てしまい、高齢者が残される農村では、養老保険制度は都市以上に重要な問題である。
加えて、2008年10月の共産党第17期中央委員会第3回全体会議において、農村改革推進の新たな政策が決定され、農地の土地請負使用権の自由流通を認める(実質的な農地売買を可能とする)ことになった。これは2006年の農業税の廃止とともに農民所得の向上に大きな効力を発揮するだろう。土地流通で農地の大規模化が進めば農業収入も向上する。年間1500万人に及ぶといわれる農村から都市への移住者も、農地を売却した際の収入があれば都市での生活の支えとなる。
農村改革が中国の低価格帯市場の消費拡大を刺激し、新たなマーケットをつくり出す可能性が出てきている。すでに、ハイアールなどの地場の消費財メーカーは農村の市場開拓に取り組み始めているが、今後このような動きはさらに活発化するだろう。
以上、内陸経済開発(地方市場開拓の観点)、労働政策(労務人事制度の観点)、産業構造の高度化政策(事業所立地の観点)、さらに農村経済振興政策(農村市場開拓の観点)について述べてきたが、これら以外にも、環境・省エネルギー分野では、地方政府レベルに定量的な目標が設定されており(この間題をおざなりにすれば、地方政府トップも解任されるほどに厳しい縛りが効くようになっている)、日本企業の事業機会との観点では注視が必要である。中国はその政策がどう動くかが、企業経営や戦略に大きな影響を及ぼす国である。政策を正しく理解すれば事業機会を獲得できるが、逆に理解が甘ければ、大きなリスクにさらされることもある。政策がもたらす事業環境の変化には今後も十分な注目が必要であろう。
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