「リトル朝鮮」
20年前、占い師に「あなたは将来、外国で生活することがあるでしょう。」と言われたことがある。当時その外国とやらは、たぶん欧米のどこかであり、海の見える家で今流行りのセレブな生活をしているのだろうと恥ずかしげも無く思っていた。よもやその地がお隣の国、中国になろうとは夢にも思わなかったし、更にそこでボランティア隊員として土地の人々と協働、共生することになろうとは逆立ちしても思い至らなかった。
現在私は吉林省梅河口市、私の出身地である北海道旭川市とほぼ同じ緯度にあり、冬には零下30度になる極寒の地で生活している。今年2月にここに着任したのだが、着いた早々65年ぶりの大雪で、地元の住民さえも困惑していた。同僚は私の身体をひどく心配し、酷い地方だと恐縮するのだが、私はかえってこの大雪の洗礼に安心し、ここで上手くやっていけそうだと確信したのを覚えている。梅河口市の人口は62万人で、その20%を朝鮮民族が占める。私の居住区も朝鮮族が多く住む地域であり、中国内の「リトル朝鮮」とでも言おうか、商店にはキムチやコチュジャン、冷麺や犬肉などの朝鮮料理の食材が並ぶ。飛び交う言語も中国語と朝鮮語が半々である。私はこの地域にひとつしかない朝鮮族中学校に籍を置き、日本語を教えている。
学校内で私に対する挨拶は、“老師、好”、“アニョンハセヨ”、“Hello”、“せんせー、おはよー”と実に国際的である。私が教えている生徒以外も何らかの形で私とコンタクトを持とうとしてくれるのが嬉しい。ここに来る前、中国の子供たちは日本の40年くらい前の素朴さを残しているのでは…と微かな期待を持っていたが、どこの世界でも生徒は同じである。勉強のできる生徒は問題なし。それ以外のお勉強の嫌いな生徒は、昼食後の授業は居眠りの時間だし、宿題は出さないもの。隠れて携帯電話のメールを打ち、あてられれば隣のできる子が答え、食べ物の話になった時だけ目がキラキラ…。以前、高校教師をしていた手前、生徒の扱いには慣れていると自負していたが、なにせ言葉が通じないので、おかしなジェスチャーを交えながら、怒ったふりをしたり、なだめたり、すかしたり、四苦八苦である。しかし、生徒の小さな進歩を見逃さず褒めてあげると、はにかんだ笑顔と“せんせ、ありがど”との言葉。中国の生徒はまだまだ素朴で、純粋で、健気なところを沢山残していた。そして、とても逞しい。以外に寂しがりな面もあるが、愛情を注ぐとたちまち芽を出す可能性があるとも感じる。このような小さな発見が日々、私の原動力になっている。特に、この地域の子供たちは、クラスの半数の親が日本あるいは韓国に出稼ぎに行っている。それも、3・4年、長ければ6・7年も一緒に生活していない状況が続く。子供たちは一番両親の愛情が必要であろう時に事情をちゃんと理解し、健気に親の帰国を待っているのである。表面的には親が不在であることをおくびにも出さない生徒たちであるが、先日授業で日本の七夕の紹介をし、短冊に日本語で願いごとを書かせた時に、生徒たちの心の声が聞こえた気がして非常に切なくなった。多くの生徒の願いが「家族みんなが健康で、ずっと一緒に暮らせますように」とか「両親の期待に応えられますように」とか「お金持ちになって親に楽をさせたい」などと親子の絆を深く感じさせるものであったからだ。こんなところで、私は両親の有難さを、この年になって彼らから教えられたような気がする。
急速に発展しつつある中国。発展途中に生まれる産物であろう、物質主義や学歴社会の熱波のようなものを、ここ東北の田舎でも感じる。親は子供の教育資金のために出稼ぎに行き、子はそんな親の苦労に報いようと努力している。家庭教育の空白期間を埋めるように、小・中学校の教師がまるで父親や母親のように時に厳しく、時に優しく生徒に接している姿に胸を打たれる。私は、このような中国の現状に深く関われるわけでも、こちらの教師のように親の替りが出来るわけでもない。日々の授業を通して、両親が現在働いている日本という国を少しでも身近に感じさせてあげ、少しでも将来生徒たちが自ら自分の人生を切り開く際の助けになればと願うだけである。
20年前の占いは間違いなく当たったことになる。海辺もセレブな生活も無かったわけだが、ここ中国での人との出会いは、何よりも豊かで生涯の宝となるであろう。あと1年半の任期となったが、一日一日を大切にしてゆきたい。(2007年7月)
18年度2次隊 吉林省梅河口市朝鮮族中学校 日本語教師 片井香奈