「驚き、戸惑い、そこから先へ!」
13年間がむしゃらに働いてきた日本の小学校から、私はこの広大な中国大陸のとある小学校へやってきた。広西チワン族自治区柳州市にある箭盤山小学。
創立40周年。武術教育が特徴で、本校独自の素晴らしい武術がある。児童数1500名以上、教職員数90名弱。現在の日本の小学校では考えられない規模の大きさだ。私が勤務していた小学校は、日本では割合規模の大きい学校であったが、実にその2倍以上の児童数。それでも中国では一般的な規模だと聞き、心底驚いた。「こんなに大勢の児童をどのように教育しているのだろう 。」と、興味津々だった。
9月1日。新学期が始まった。初めて児童たちと対面する日だ。中国語で挨拶をする。3か月の訓練で身につけた中国語を精一杯駆使して挑むしかない。心臓が破裂しそうだ。児童による華やかな獅子舞で式が始まった。武術が盛んなだけに、舞の動きも見事だった。目の前には、1500名余りの児童が校庭一面を覆い尽くすようにきちんと整列している。とてもそんなに大勢いるとは思えないほどの整然とした様子に、ただただ驚き、感心するばかりだった。校長先生に紹介していただいて、いよいよ私の挨拶。今思えばきっと聞き取りにくかったであろう私の中国語を児童は真剣に聞いてくれた。「あぁ、これから1年半、この児童たちや教師たちとたくさん交流したい。」そんな気持ちが込み上げてきた。
正直な話、こちらに来てからしばらくの間は、学校での活動よりも、生活そのものに慣れることが何より大変だった。買い物、食べ物、交通、娯楽など。どことなく日本と似ているようでいてやはり違う。そして何よりも重くのしかかってきたのは言葉の不自由さだった。購入したいものが見つからないときにも、家の水道管が破裂したときにも、流暢に言葉が出ず、なかなかこちらの意図が伝わらない。何一つ大切なことを自分で成し遂げることができない不甲斐なさが情けなかった。
例えば旅行者として、行きずりの人に簡単な挨拶やら自己紹介やらを交わす程度なら問題はない。だが生活者として、困った状況や胸の内をきちんと伝えることとなるととたんに巨大な壁が立ちはだかる。日本語ではものの数秒で伝え終えることが、私の中国語の力では、身振り手振り、筆談などを駆使してへとへとになって分かってもらえるのがやっとだった。
だからしばらくは恐かった。何が恐かったかというと、「相手に迷惑をかけてしまっているのではないか。」ということ。「こんなに下手な中国語しか話せなくて、聞いている方はいらいらしているだろう。」とか、「このレベルの中国語で、私は本当に意味のある活動ができるのだろうか。」とか、そんな悲観的な気持ちで胸が一杯になって話すことが恐くなってしまったのだ。
町を見渡せば、仲よく腕を組んでたくさん会話を楽しみながら歩く親子の姿や、友達同士でにぎやかに語らいながら将棋を指したり、お茶を飲んだりしている人々の姿などが溢れていた。「私は、ひとりぼっちだな・・・。」日本が恋しかった。地元の人々の日常の、普通の生活の中に、友達や家族との温かな交流を目にしながら羨ましさや孤独を感じながら悶々とした気持ちで過ごしていた。このままここで私の活動は終わってしまうのか?それでいいのか?自問自答していた。そんな少し重い心持ちの日々がしばらく続いたが、それでも毎日学校には行き続けた。
「麻美先生、こんにちは!」
「麻美先生、今日は授業に来てくれるの?」
「麻美先生、そのオレンジ色の服、すごく似合ってますね!」
「麻美先生、“你好!”って日本語でどう言うの?」
「麻美先生!あのね・・・。」
「麻美先生!」・・・・・。
校門をくぐると、毎日欠かさず児童たちが声をかけてくれる。事務室に行けば、
「麻美、このお茶おいしいのよ。飲んでみて。」
「朝ご飯食べたの?ちゃんと食べないと元気でないよ!」
「中国の民謡、教えてあげる。いらっしゃい。」・・・。
そうやって毎日同僚が声をかけてくれる。
そうだった。児童たちにも同僚の教師たちにも、自分の家庭や友達との交流や仕事があり、中国での普通の生活がある。それでも私に声をかけ、話しかけてくれていた。聞き取りもろくにできない私のために、ゆっくり何度も話してくれる人、私のつたない中国語にも耳を傾けてくれる人。そういう温かい人々がいつもそばにいてくれたのに、私は自分で勝手に劣等感をもって壁をつくってきちんと現実を見ようとしていなかった。つらいことから目を背けようとして大切なことまで見落としていた。誰かのせいにして自分の努力を怠っていた。
思い出してみよう。私の中国語が下手だからといって、一生懸命話そうとしている私のことを、とがめたり笑ったりした中国の人がいただろうか?いや、いなかった。それどころか、「間違ったって気にしないで、どんどん話して。私たち中国人は、失敗には寛大なのよ!」
と、真顔で励ましてくれた。
思い出してみよう。よほどのことがない限り日本に帰国できない私のことを思って、中秋や春節のころ「一緒にうちでご飯を食べましょう!」といろいろな人が声をかけてくれたことを。週末に「柳州の素敵なところに連れて行ってあげる!」と、家族みんなと楽しいひとときを過ごさせてくれたことを。
そしてこんなこともあった。今年教員になったばかりの同僚の教師が、落ち込んでいる私にこう言った。
「私たちにだって日々つらいことや苦しいことはある。麻美だけじゃない。それでも自分で乗り越えようとしてるの。最終的には誰も助けてくれないよ。自分で方法を見つけにいくの。麻美は、自分でそういう努力をしている?」
図星だった。日本ではしょっちゅう自分自身が口にしていた言葉だ。その通りだ。彼女が私に面と向かって真剣に話してくれたこの言葉は、今もしっかり胸に刻んでいる。不甲斐ない私を見かねて率直に伝えてくれた温かい言葉だった。
中国へ来て7か月の間のことをしっかり思い出してみれば、つらいことや悩みも確かにあったけれど、それ以上にこんなに温かくてきらきらしていることもたくさんあった。嫌なことから目を背けて、素敵なことまで見失うような、そんな時間を過ごすのは、もうよそう。もっと強くなろう。前を向いて進もう。
2月から後期が始まった。前期から継続して担当しているクラブ活動の他に、通常の美術と音楽の授業も受け持つことになった。突然のことで戸惑いもある。
中国と日本の教育には、内容や方法に大きな違いがある。日本の方法に慣れ親しんだ私ではあるが、それは一つの方法であり、絶対的なものではない。しかも私の考えからすれば、教育はそれぞれの国の基盤づくりにも関わる分野だ。だからそう簡単に取り組んでいいものか、という悩みはある。そして、言葉の問題もある。それらの点から考えても、これからの活動はますます深みを増し、多くの課題にぶつかることだろう。だが、もう逃げない。私はこの学校の児童たちが好きだ。同僚の教師たちのさりげない優しさに感謝している。だから、私はたとえうまくいかないときがきても、大きな課題にぶつかっても、もう逃げない。目の前の児童たちの様子をよく見て、同僚の教師に相談して、自分の精一杯の力で考えて行動して、心を込めて取り組んでいこうと思う。
私は、そのために中国に来た。逃げるためでも、悲観するためでもなく、こうして出会うことができた素敵な子供たちや中国の人々と、私のできうる限りの活動を通して、一歩でも先の未来へ一緒に踏み出していくために。
広西壮族自治区柳州市箭盤山小学 小学校教諭 桑野麻美