宝物になった時間達
振り返ってみると2年間と言う時間は、“あっという間だったような・・”、“そうでもなかったような・・”と言う時間を行ったり来たりしながら過ぎていった。けれども、<その時間の中で>私が唯一胸を張って言えることは、<その時間の中>には「ちゃんと生きてきた道」が出来たという事だ。人間らしく、未熟者らしく・・時に回り道をしたり、近道してみたりといろんな道を通ってみた。その都度、首がねじれるほど悩み考えた事、苦しんだ事、楽しかった事、幸せだった事、本当に悲しくて声をあげて泣いた事・・・いろいろな思いを持った。“答えが分からないという事”がこんなに辛いのだという事を改めて感じたのもここ中国だった。でも、いつもどんな私の事も“想い・支え・守ってくれた”そんな素晴らしい仲間が出来た。もう帰国まで1ヶ月をきった今は、穏やかに静かに過したいと思っていた。けれでも、2年間で私が出会った素晴らしい中国人の友人達の事を是非もっとたくさんの方々に知って頂きたいとも思い、隊員最後の総まとめとして「人民網」にその思いを残そうと思う。
2年前配属先である“張家口市第二医院”に来た時、私はもの凄く緊張し・不安に押しつぶされそうだった。言葉が話せない事・通じない事への苛立ち、文化や習慣の違いから、どんどんお互いの思いはすれ違っていった。何をしにここに来たのか?何も思いが届かない・・・こんな私に一体何が出来るのか?そんな自問自答を毎日繰り返していた。初めて病棟に配属になった2006年1月5日。あまりの緊張で吐き気がし、更に周りの中国人の全ての人が特に意識せずに行う、下から上まで(上から下までの)品定めするようにじっと見るあの行為を(きっと一生忘れる事が出来ないだろうと思う)その場にいた全ての人にされ、とにかく生まれて始めて一度にたくさんの人の目:視線を感じた。更に、やっときた1日半の貴重な休みの度に、私の部屋の前にはたくさんのひやかしをする若い中国人が集まり、部屋の中を覗くようになった。他の病棟の患者なのに“内科に日本人がいる”という話を聞いて私をわざわざ見学に来る人達、入院患者やその家族から話を聞いたと言って入院患者の友人やら会社の人間と言う人までが私を見にやってきた。私が一言中国語を発すると皆が笑った。私が、怒っても・悔しがっても・困っていても・・笑われた。最終的には、私を見ただけで日本人というだけでみんなが笑った。人を初めて怖いと思い、視線が痛すぎて毎日一人泣いた。“中国なんか嫌いだ!中国人なんて最低だ!デリカシーのかけらもない・・”本当にそう思った。生まれて始めてこんなに注目され、少しだけパンダや芸能人の方々の苦労も分かった気がした。
でも、そんなビクビクしながら過していた私を救ってくれたのは、私の事を始めて友人と呼び、私の全部を受け止めてくれた一人の中国人の老人であった。中国人を怖いと思ったのにまた同じ中国人に救われたのだ。それからの日々は、たくさん笑って・話して・泣いて・怒って・・と自分らしくいられる時間だった。その老人を通して、中国人の優しさ・温かさを感じた。人間不信になりかけていた私の恐怖心は、氷が溶けていく様に無くなっていった。彼との出会いが無かったら“今ここにいなかったかもしれない”そう思えるほど素晴らしい老人だった。「あせる事は無い。大丈夫。いつでも君の事思っているし、守ってやる。」そんな言葉をもらった私は無敵になり、少しだけ強くなれた。その後の私の目指すべき活動の道筋や意味は、とてもシンプルに分かりやすくなった。「私の友人の老人とその回りの患者達が、安心して過せる病院にする事」。守りたいと思う人達が出来たその瞬間、私の活動の大きな目標ができた。だいぶ肩に力が入っていた私は、中国に来てこんなに仲良くなれる友達が出来るとは思っていなかった。でも、彼に出会い・声を掛けられてからは、私の全ての世界が変わった。一緒に話を何時間もした、いつしか老人がいろんな話や思いを語ってくれた、奥さんの乳癌が発覚した時には私の前で泣いてくれた、私の迷いや悩んでいる事を全て黙って聞いてくれた、一人で寂しいだろうからと言っていつも側にいてくれた・・・中国に来て初めて出来た想い出には、全て彼とその家族がいた。彼が退院するときに「君の事は娘だと思っているからね!」と笑顔で言ってくれた時、胸がいっぱいになった。退院して3週間程して病状が悪化し、また入院して来た時は私の方が辛かった。その後彼が亡くなった時には、一人で声を上げて泣いた。
日本でICU勤務をしていた私は、いつの間にか人が亡くなることに慣れてしまって、悲しいのだが心が動かなくなっていた。どんなに仲良くなった患者さんが亡くなっても、祖母が亡くなっても、悲しいのだがそれを表現する仕方が分からなくなっていた。だから、何も無かったように振る舞った。でも、はけ口が無い心はどんどん空っぽになっていった。でも、この中国で初めて出来た友人が私にいろんな事を教えてくれて、授けてくれた。辛い時や悲しい時はたくさん泣いてもいい事、思いを人に伝える大切さと温かさ、素直でいる事の大変さとちょっとした勇気・・・彼に出会って、青年海外協力隊としても、一人の人間としても、看護師としても・・本当にたくさんの事を教えてもらい、与えてもらった。今は亡き中国の父でもあり、最高の友人である王占有氏に出会った事を私は一生忘れないし、大事にしていきたいと思っている。そして、この中国でこんな素晴らしい交流が中国人と出来た事に本当に感謝している。
しかし大きな支えを無くした私に何の罰ゲームなのか分からないが、その後の3ヶ月間はなぜか戦争を体験している多くの老人達と日本の事が大嫌いだと言う方々にばかり出会った。中国に来てまだ日の浅い私と彼ら(患者・家族)との接点と言うものが、“戦争”という事だったからその話題になってしまうのは仕方ないのだが、自分の勉強不足・中国人の中に噴き出さんばかりに溢れている怒りと悲しみを始めて知り途方にくれた。私が謝った所でどうする事もできないし、「私に言うな!」と言い返してしてみようとも思ったが、火に油を注いでも仕方ないし・・と毎日どうして良いのか本当に分からなかった。だから、怒鳴られて、指差されて、人殺しの民族め!と言われても「中国語上手じゃないからその話は出来ないのです。ごめんなさい。」と言うしかなかった日々。許してもらおうとは思わないし、時が経ったからと言って、戦争を起した日本の罪が軽くなり・消える事は決してないのだという事を実感した。日本で私はこんなに戦争に対して考えた事は無かったし、そこまでの思いを生むという事も分かっていなかった。私は、なんと愚かだったのだろうか?と驕っていた自分を怨んだ。「<そういう時代だったから、仕方なかったのだ。>だから今を生きる私達は同じ過ちを繰り返さないようにしていかなければならない。それが、今を生きる私達の役割だ。」と私は“戦争”に対してこのように考えていた。しかし、その考えは甘く、あまりに安易なものであったと中国に来て実際に戦争を体験した方々に触れて感じた。
「この足の傷は、まだ小学生だった俺に向かって日本兵が刀を振り下ろした後の傷。こっちは、銃弾が飛んできた時に負った傷。こっちは・・・」この話をしている老人は、私にどうしろと言うのでもない、怒鳴りちらすでもなく、殴りかかってきたり、私を殺そうともしなかった。肺気腫で呼吸困難で入院しているのに、途中咳き込み、苦しみながらもただ淡々と私に体中にある傷を説明していった。私に何が出来る訳でもなく、どうして良いのか分からずただ途方にくれた。でも、今の私に出来る事は何か?そう考えた時、看護師として、一人の人間として、日本人として・・決して彼らの前から逃げ出さない事、そして何より一生懸命に心をこめて“看護”をする事しか私には出来ないのではないかと思った。それから、数日経ったある日、彼が入院している部屋に新しい年老いた病人が入院してきた。“期待はするべからず・・”と思った通り、私が日本人であると分かった途端、入院してきた老人の形相は変わり、一通り怒鳴りちらし・怒り、(昔、非常に辛い思いをされたようで)、最後に私につかみかかって来ようと手が伸びてきた。その後、いいタイミングで新しい入院者である老人の友人が来て更に話はヒート アップしてしまった。私はただ何も言えず、ぽろぽろ涙をこぼすしか出来なかった。そんな時に、先に入院していた体中に傷の後がある老人が「その子に言うな。とてもいい子だ。おれの友達だ!」と息を切らしながら叫んでくれた。嬉しかった。とても嬉しすぎてその場でまたボロボロ泣いた。その後この部屋の出来事を聞きつけて、たくさんの同僚がその場から動けなくなっていた私を救いに来てくれた。そして「中国と日本は、昔戦争をして仲が悪かった。でも、それは国と国の偉い人達が言い出して始まってしまった戦争の話で、私達には関係ない。あなたは、いい人それでいい。関係ない。気にするな!」と皆が言ってくれた。
今まで“のほほん”と生きてきた私には、こんなにたくさんの深い傷を負っている中国人に何も出来ないし・日本人なのにどうして良いのかさえも分からなかった。その後も内科病棟という場所柄、たくさんの老人に出会った。その出会いに比例するように私が病棟で怒鳴られ・泣く回数は増えていった。でもとにかく、一回心に決めた「看護師として、一人の人間として、日本人として・・決して彼らの前から逃げ出さない事、そして何より一生懸命に心をこめて“看護”をする事しか私には出来ないのではないのか」と言う思いを誠実にやり遂げる事が大事なのではないかと思い、一生懸命に働いた。同僚達に“久美子が座っているのあまり見ない。疲れないの?”と言われるほど私は良く動いていた。そうしたら、いつの間にか老人が私を“ここの病棟で一番いい看護師さん”だと言ってくれるようになった。たくさんの人が私と話をしてくれるようになり、誰からも怒鳴られたり・怒られたりしなくなった。そして、いつしか老人達が私の事を守ってくれるようになった。彼らの心の深さと広さに本当に心から感謝した。彼らは、一度私を受け入れてくれたらどんな事があっても私を守ってくれた。小泉前首相が靖国神社を参拝した時には、その報告と私に何か起こらないか心配だと言って退院して間もないのに、わざわざ様子を見に来てくれた老人までいた。
中国の人々は、まずとても近い距離で、(彼らの中では距離は近いが心の距離はとっているつもりらしい)もの凄くジロジロ見ながら相手を観察する。しかし、恥ずかしいし知らない人だと言って人見知りをするが、話をしてお互いに名乗りあったらもう友達になれる。そして、友達になったらその人の事を自分の家族と同じように思い・関わり・世話をする。今の日本にはなくなってしまった“人情溢れる人間関係”がそこかしこで生きている。それは、国を超え・人種を超え・・なんの障害もなく出来てしまうのだ。日本人には無い熱い思いや考え方、あまり好きになる事の出来ない習慣もあり、たまに息苦しくなったり、憤りを感じたり、非常に面倒くさいと思う事も何度もあった。でも、彼らの温かい思いや優しさが無かったら私はこの街で・この病院で・この国で2年間過ごす事は出来なかったと思う。この2年間で本当にたくさんの中国人に出会った。もちろん今まで書いてきたように素晴らしい中国人ばかりでなく、心無い本当に嫌な人もいた。でも、そんな事がとても小さく思えるほど、この2年間で関わってきた多くの中国人から温かいものをたくさんもらった。それは、ここでたくさんの中国人と交流しなかったら分からない事であった。彼らに出会えた事、一緒に過ごせた事、けんかした事、泣いた事、大声で笑いあった事・・そんな事が出来て本当に楽しかったし、幸せな時間であったと振り返って思う。この2年間と言う時間は、私の“一生の宝物”になった。大切にしていこうと思っている。ありがとうございました。そして、さようなら。(2007年11月)
17年度2次隊 張家口市第二医院 看護師 三瓶久美子