丹江口の意地悪な教師
「はい。では、今から本当に日本人のうちに電話をします。」
少し間が空いてから、少しだけザワザワした。この時点ではまだ半信半疑のようであった…。
その日も暑い日であった。ここ、ユン陽師範高等専科学校は湖北省丹江口(たんこうこう)市にある。省都の武漢が「中国三大かまど」の一つとして夏の暑さで有名だが、丹江口もその影響から逃れることはできず、毎日蒸し暑い日々が続いていた。最近では授業が終わると、汗でびっしょりになり、まるでシャワーでも浴びたかのようになってしまう。
私がこの学校に赴任してきた時は2月だったが、最初にびっくりしたのは室内の気温であった。内も外も全く同じなのである。丹江口に赴任する前、北京に滞在していた時はその外気温の低さ、つまり寒さに閉口していたが、ここでは室内気温に閉口することになった。その時は「なぜこの部屋は夏向きに作ってあるんだろう? 冬はこんなに寒いのに。」と思った。しかし、今はその理由をいやというほど思い知らされているのであった。
丹江口は日本の感覚で言うと、市というより田舎の小さな町といった感じで、私はこの町に滞在する唯一の日本人である。私の学生達は他の市や省から来ている人がほとんどなのだが、彼らに丹江口の印象を尋ねると、「小さい町です」「つまらないです」「交通が不便です」などと否定的な答えが多い。
しかし実は、丹江口は中国の命運を左右しかねない重要な場所だということがわかった。それはきれいで豊富な水があるからである。中国の国家プロジェクト「南水北調」(南の水を北へ運ぶ)の正に中心となる地域なのだ。丹江口にはこのチャンスを生かして是非とも発展してもらいたい。そうすれば、将来は肯定的な印象を持たれる町に必ず変わっていくと思う。私の現在の希望である。
私はその丹江口で日本語を教えているのだが、日本語に限らず語学というものはよく話そうとする人に有利にできている。だから学生でも、積極的に話そうとする人とあまり話したがらない人との差は広がる一方だ。そこで、せめて授業中はあまり話さない人に機会を提供しようと心がけている。
その日の授業のトピックは「電話をかける」だった。授業準備の段階で私はひらめいた。「学生に、見ず知らずの日本人に電話をかけさせたらどうだろう」と。ただでさえ、学生達には私以外の日本人と接する機会がないのだ。その意味でもこれはいいチャンスになると思った。そして、事前に同期の日本語教師隊員に連絡を取り、協力してもらうことになった。そして迎えた授業当日…。
「じゃあ、○○さんと△△さん。」
私が学生を指名すると、2人の男女学生は起立した。
「○○さんと△△さんは日本人のうちに電話をします。」
いまひとつ状況が飲み込めていない2人。
「その日本人の名前は××さん(同期隊員の名前)です。」
半信半疑のまま、教室の雰囲気が少しザワザワしている。
同期隊員とはいえ、失礼があっては申し訳ないので実際にかける前に、私と指名した学生で応答の模擬練習をした。実はこの学生はクラスの中でもあまり話さないほうの学生で、それを承知でわざと指名したのだ。
模擬練習を終えると、私はポケットから自分の携帯電話を取り出した。
「?…、ウォーーー」教室中が騒然としてきた。やっと、状況がわかったようだ。
「本当に、日本人に電話するんだ!!」「マジかよ!」「信じられない!」(以上、中国語なので推測)
大騒ぎになった。するとその雰囲気に呑まれたのか、指名した学生がしり込みを始めた。私が電話を渡そうとしても受け取らない。私は言った。
「大丈夫ですから。どうぞ。」しかし、怯えたように首を振る学生。
「大丈夫ですよ。どうぞ。」相変わらず、受け取ろうとしない。
他の学生はその時「なぜ、彼女(指名した学生)にやらせるんだ。意地悪な先生だな」と思ったかもしれない。しかし、これは彼女にとって絶好のチャンスなんだと私は考えていた。日本語に対する苦手意識を一気に打破する起爆剤なのだと。私は心を鬼にしながらも、笑顔で言った。
「大丈夫です。××さんは私の友達ですから。」すると、こちらに目を合わせてくれた。
私はそれを見逃さなかった。電話をダイヤルし、半ば無理やりに電話を持たせた。彼女が耳に電話を当てると、それまでの大騒ぎが嘘のように教室が静まり返り、シーンとなった。私は祈った。
「もしもし、××さんのお宅ですか。」たどたどしいながらも練習どおりに話し始めた。………。
「ウォーーー!!」大歓声があがった。
それは大体2分後ぐらいだっただろうか。教室は万雷の拍手に包まれていた。やった!! 彼女は最初から最後まできちんと練習どおりに発話を進めることができていた。当の本人は放心したように座ってしまったが、周りの学生達から祝福されていた。素晴らしい結果だった。私も拍手を贈りながら、心の中で彼女につぶやいた。
「意地悪な日本人でごめんね。でも、これからも一緒に日本語、がんばろうね」(2007年9月)
18年度2次隊 湖北省丹江口市 ユン陽師範高等専科学校 日本語教師 遠藤 智幸