長春 「中日友好楼」の最後の「中国のお母さん」

長春市平陽街790号の「中日友好楼」(14日撮影)。 勝目尋美さんを育てた崔志栄さんと夫についての日本の現地新聞の報道記事を見せる崔志栄さん。娘の写真を見せる崔さん。指差しているのが養女の勝目尋美さん。 娘の勝目尋美さんが日本から寄越した手紙を見せる崔さん。 花に水をやる崔さん。
 

 吉林省長春市平陽街790号に位置する「中日友好楼」にはかつて、日本の残留孤児の中国人養父母39人が住んでいたが、現在では残留孤児の「中国のお母さん」として親しまれていた今年90歳になる崔志栄さん1人しか残っていない。「娘の日本の名前は勝目尋美だが、私がつけた中国名は秦艶君。引き取った時にはまだ1歳だった。娘は10年前に日本で病気で亡くなった。」娘の話になると崔さんは悲しげな表情になった。「残留孤児も何もない。娘は本当の娘として育てた。」崔さんの連れ合い、崔家国さんは既に死去している。1946年夏に長春民康路で営んでいた靴屋から帰宅途中に、崔家国さんは偶然、勝目尋美さんを見かけた。「夫が言うには、子供は当時ワンピース姿でセーターを着ており、一目で日本の子供と分かったという。でも子供は全身汚れだらけで、ごみためから食べ物をあさっていたので、夫が家に連れて帰ってきた。」崔さんは「家で風呂に入れたら、3回も真っ黒になった水を替えて、やっときれいになった」と思い出を語る。

 「当時は東北の陥落で、皆日本人に対して怒りを感じていた。」崔さんは語る。「しかし戦争は大人の間違いで、子供に罪はない。育てるべき。もし助けなかったら、子供たちは生きていけなかった。」1983年のある日、政府が崔さん夫婦に、勝目尋美さんの生みの親が見つかったと通知してきた。父親は勝目乙太さんといい、神奈川県の川崎市に住んでいる。当時は中国にある日本企業の従業員で、戦乱の中で娘とはぐれてしまったが、娘が日本へ来て暮らすことを希望しているという話だった。勝目尋美さんは翌年、日本へ帰国した。崔さんによると、娘が生存中はしょっちゅう中国の養父母の元を訪ねてきており、日本政府も崔さんを日本へ招待したという。「勝目乙太さんの一家は私たちに感謝してくれた。中国人が彼らの子供を育て、子供に再会できるとは想像もしなかったと言っていた。」崔さんは写真を手にしながら語る。大まかな統計によると、当時の日本軍が敗戦で帰国する時、5千人以上の孤児が中国に残された。大きいものは13歳、小さいものは生まれてわずか数日だったという。彼らは日本人孤児と呼ばれ、多くの孤児が善良な中国人に引き取られた。「中国の母親の愛は血筋や国境、恨みを越えたもので、こうした愛は人類の最も偉大な感情だ。」残留孤児を長年研究してきた中国人学者の曹保明氏は語る。「新華網」が伝えた。(編集YH)

 「人民網日本語版」2012年8月15日