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襄陽古城壁 (2)

襄陽古城壁の夕焼け

 歴史・沿革

 襄陽城は漢の時代に建設を開始し、漢末の荆州牧・劉表の治所だった。

 南宋の乾道5年(西暦1169年)、城壁の補修を行った。

 淳熙8年(西暦1181年)、堤防を修復し、防水用の堤防を建設した。

 元の時代に襄陽は荒廃した。

 明の洪武年間(西暦1365年)、朱元璋の配下の鄭愈が襄陽を守った。修復と北東の角の増築のため、旧大北門から東に巡り長門に達する城壁を増築した。

 正徳11年(西暦1516年)、漢水の水位が増し、城壁を破壊した。巡道の聶賢が資金を拠出し補修を実施し、四つの門を新しくし、さらに金属で城門を覆った。

 万歴4年(西暦1567年)、知府の万振孫が東門を「陽春」、南門を「文昌」、西門を「西成」、大北門を「拱宸」、小北門を「臨漢」、長門を「震華」と名づけた。

 崇禎14年(西暦1657年)、張献忠が反乱軍を率い、襄陽城の胸壁と城楼を破壊した。袁継咸が自ら兵を率い胸壁を修復し、都御史の王永祚が六つの城楼と南西の角にある獅子楼を再建した。

 清の順治5年(西暦1648年)、都御史の趙兆麟、檄副史の蘇宗貴が西門の城楼を再建し、知府の冀如が南門の城楼を再建し、同知の徐騰茂と張仲が大北門・小北門の城楼を再建し、知県の董上治が東門の城楼を再建した。

 雍正年間、副史の趙宏恩が仲宣楼を南東の角に再建した。

 道光6年(西暦1826年)、六つの門の城楼を再建した。

 咸豊6年(西暦1854年)、74軒の兵の詰め所を建設した。

 同治2年(西暦1863年)、夫人城を補修した。

 1939年、日本の侵略者が襄樊市に大空襲を仕掛けた。住民を避難させるため、西門の南側と南門の西側の城壁を、西門・南門の甕城・城楼と同時に取り壊した。

 1945年、長門の城楼が補修をしていなかったため崩壊した。

 1958年、東街の拡張工事を実施した際に、東城門を取り壊した。

 1977年、小北門の城楼の修理を行った。

 1981−1982年、小北門から夫人城に至る城壁を修復・補強し、かつての築城方式と土の埋戻しにより、段階別に城壁を補強した。

 1982−1988年、小北門から夫人城に至る城壁の上面を補修した。上面の中部はやや高く、両端がやや低くなっており、石が敷き詰められているため、排水がしやすくなっている。

 1988年に小北門の城楼を点検し、古い建築技術に基づき大規模な修理を実施した。一部の朽ち果てた柱・梁・軒樋などを取り替えた。色を塗り直し、かつての姿を取り戻した。

 1989年に東門口の古い壁を修復し、外側に石を積み胸壁を築いた。

 1991年正月、大北門と甕城の補修を実施し、大北門甕城の全体的な建築形式を保護した。

 1991−1993年、園林および市名城弁公室などの部門が、東と西の城壁の一部を補修した。

 1992−1993年、市名城弁公室が仲宣楼の全面的な再建、周辺環境の整備を実施した。

 1996年に大雨が降り、東門の一部の城壁が崩壊した。補修の際にまず階段上に穴を掘り、基礎を固め、粗石・モルタルで城壁を築き、同時に排水口の処理を行った。

 1993−1999年、損傷・崩壊した一部の城壁に保護目的の補修を行った。

 2000年、夫人城の補修を実施した。

 2001年、襄陽城の北の城壁の、西側の内壁(小北門から夫人城にかけて)を補修した。西の城壁の南側、南の城壁の中間・西側(いずれも外壁)を補修した。(1988年に襄陽城は対外開放された)

 「人民網日本語版」2013年12月


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