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習家池 (2)

習家池

 習家池は襄陽の市街地から南に10キロ離れた白馬山の麓にあり、池の北には有名な峴山がある。習家池が最も早く建設されたのは、東漢の建武年間(光武帝・劉秀の年号、西暦25−56年)だ。池の主人の習郁は書道に精通しており、侍中(皇帝の左右に侍り、宮廷に出入りする役人)に就任し、すぐに大鴻臚(九卿の一つ、少数民族をもてなす役人)になり、襄陽候とされた。習郁は范レイの魚の育て方にならい、白馬山の泉の水を引いた。池には釣魚台があり、釣魚台には楼台とあずまやが建設された。山・林・あずまやが池に映り、水面がゆらゆらと動き、魅力的な景色だ。

 習家池は晋鎮南将軍の山簡によって、高陽池館としても知られるようになった。「晋書・山簡伝」の記載によると、山簡の字は季倫、号は山涛幼子だ。永嘉3年(西暦309年)に鎮南将軍に任命され、荆州・湘州・交州・広州の軍事を管理し、襄陽に駐屯した。当時、西晋朝廷が権威を失い、崩壊の危機に直面していた。この国が滅び、人々が塗炭の苦しみにあえいでいた時に、山簡は酒に溺れていた。

 「晋書」には、「諸可氏は荆州の土豪族で、美しい池を持っている。山簡は池で酒を飲み、自らを高陽酒徒と称し、この池を高陽池を呼んだ」と記されている。

 東晋の頃、習郁の末裔の習鑿歯が池を望み書物を読み、あずまやで史書を記し、「漢晋春秋」という名作を残した。これにより習鑿歯は後世に名を残す歴史学者となり、習家池が名を高めた。

 晋以降、習家池は荒廃した。その後複数回の修復を経て、自然美・建築美を統一し、歴代の有名人・観光客を集めた。孟浩然、皮日休、欧陽脩、銭錞などの大詩人がこの地を訪れ感嘆し、詩を残した。

 襄樊市人民政府は1983年に、習家池を市級文物保護単位に指定した。

 同治5年(西暦1866年)、習家池の改築が行われた。

 省政府は1955年、資金を拠出し補修を行った。

 襄樊市政府は1957年に特別資金を拠出し補修を行った。

 1960−1980年には「幹部療養院」、空軍第3野戦区医院の所在地とされ、祠堂がすべて取り壊され、病院の宿泊施設と職員の宿舎が建てられた。

 襄樊市政府は1987年に資金を拠出し補修を行った。

 2008年には六角亭、荷花池、碑坊、白馬泉を補修し、習家祠堂を修復した。

 湖北省人民政府は1992年に、省級文物保護単位に指定した。

 「人民網日本語版」2013年12月

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