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米公祠

雪の後の米公祠

 米公祠は湖北省襄樊市樊城区沿江路の西側にあり、旧名は「米家庵」。北宋の書画家・鑑賞家である米芾を記念するため建てられた祠堂だ。米芾(西暦1051−1107年)は、その立ち居振る舞いが「癲狂」であったことから、米癲と呼ばれる。米芾は詩文と書画を善くし、鑑定に長けていたため、蘇軾や黄庭堅と並び宋代四大書道家と呼ばれる。米公祠が初めて建設された時代は明らかになっていないが、「襄陽県志」には「元から明にかけて戦争により破壊され、明になり再建された。太子太保吏部尚書の鄭継之が万歴47年(西暦1619年)に『米氏世系碑』に米氏故里の沿革を記した」とされている。米公祠の敷地面積は1万6000平方メートルに達し、主体となるのは中軸線に沿う建築群だ。中間に位置する拝殿は、米氏の末裔が祖先を祭る場所だ。裏にある宝晋齋は四合院で、両側の碑廊の敷地面積は160平方メートルに達し、歴代の多くの石碑が残されている。その後さらに仰高堂、潔亭、東・西苑などの建築物が再建された。祠堂の中には草木と築山があり、静かな環境だ。米公祠とその石碑は、1956年に湖北省人民政府によって、省級重点文物保護単位に指定された。

 明の万歴47年(西暦1619年)、太子太保吏部尚書の鄭継之が「米氏世系碑」の中で米氏故里を記述。

 清の康煕11年(西暦1672年)、呉公琬、鄭五雲がこの地を訪れ、残されていた「米氏世系碑」の一部を発見した。康煕32年(西暦1693年)、江南学政御史の邵嗣堯が米氏故里で発見した石碑の一部が、すでに発見されていたものとつなげられた。

 雍正年間に、祠堂の5棟が再建された。その全てが白い壁に瓦を葺き、「米氏故里」の石碑が立てられた。

 雍正5年(西暦1727年)、知府の高茂選が石橋を建設し、祠堂とつなげ、下に券門を建てた。あずまやには、「面墩亭」と記された。米公、蘇軾、蔡襄、黄庭堅などの筆跡が石碑に発見された。祠堂には現在、石碑が45枚残されている。祠堂の左手前には明の陳継儒による「志林序碑」があり、その裏側には「浄名齋記」が刻まれている。右には緝朝御史の邵嗣堯の石碑「重修米氏故里」があり、その裏側には「西園雅集図記」が刻まれている。

 咸豊年間は戦乱に見舞われ、道台(清の地方長官)が樊城の城壁の建築を命じ、城門は「宝晋門」と名付けられた。米氏一族はこれが祠堂を遮るとしたが、襄陽の道台は「兵乱が迫っており、来年以降の旧跡の改築を約束する」と指示した。

 同治3年(西暦1866年)、米氏一族は道・府・県官と会談し、建設工事を計画した。米公祠牌楼と過庁(通り抜けのできるホール)、中庭の3軒の建物、祠堂の中心的建築物の「宝晋齋」を建設した。

 光緒元年(西暦1875年)12月に祠堂を改築した。文淵閣の大学士であった单懋謙が碑楼に「米公祠」と記した。

 中華民国の時代、軍閥の混戦に陥った。米氏の末裔は貴重な文化財を保護するため、45枚の石碑を米芾の27代目の子孫、米高秦の家に運び入れ保管した。

 抗日戦争の時代、日本帝国主義が襄樊を侵略し、大空襲を実施した。貴重な石碑を地下に隠したため、略奪を免れた。

 1951年、襄樊市は文物保護管理委員会を設立し、米高秦が自ら石碑を提供した。この貴重な石碑は現在まで、米公祠に収められている。

 1982年、襄樊市政府は特別資金を拠出し、米祠の大規模な補修を行った。

 2000年、襄樊市政府は市の工場の土地(かつては米公祠の土地)を返還し、800万元余りの資金を拠出し、米公祠の拡張工事を実施することを計画した。現在までの投資額は600万元(1979年に米公祠は対外開放された)。

 2006年5月25日、国家級重点文物保護単位に指定された。

 「人民網日本語版」2013年12月

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