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中国残留孤児、瀕死の幼い命を救った善良な中国人の記録を自費出版

日本"战争孤儿"自费出书记录拯救过他的善良中国人

2015年06月15日09:20

因战败与家人离散并被中国人抚养长大的日本人,形成了所谓的中国残留孤儿群体。目前居住在东京都世田谷区的中岛幼八就是其中的一位。近日,他自费出版了回忆自己半生经历的《此生所有》一书,描写了众多将他的幼小生命从濒死边缘拯救出来的善良的中国人。

据日本《朝日新闻》6月10日报道,值此战后70周年,愿将此书献给那些在中国和日本都曾伸出援手的各位。该书的中文版也将于7月在中国发行。

中岛生于东京。1岁时与父亲、母亲和姐姐一行四人作为开拓团成员远赴中国东北。1945年父亲应征入伍,中岛一家人在当年8月因战败沦为难民。

随着天气转凉,食物愈加匮乏。母亲将因营养不良陷入濒死状态的中岛托付给当地农村的中国人。养母给中岛按摩腹部,将食物嚼碎后喂给他,寸步不离地看护左右,终于使中岛渐渐恢复了元气。

1946年秋,决定回国的生母开始与养母争夺中岛。村官居中调停,让二人相隔20米距离站定,把中岛带到二人中间,由他自己选择。中岛最终走向了一起生活多日的养母,而生母和姐姐黯然归国。

报道称,和小学同学一起玩耍,跟着当接生婆的养母一起到处走,第一位养父因被狗咬伤去世后又跟随第二位养父一起生活,小学毕业后又被托付给第三位养父……书中对这些抚养过中岛的善良人的描写读来让人暖心。

直到遇见一位劝其回国的老师,中岛终于在1958年搭乘最后一艘遣返船回到日本,见到了一直在等待他的生母。这一年中岛16岁,开始拼命学习日语。在日中友好协会工作一段时间后,他开始独立,靠做翻译生活。

在2008年生母和姐姐相继过世后,他萌发了写书的想法,为的是记录下亲身经历的事。用时一年多,中岛便完成了写作。他也找过出版社但都没回音,于是在战后70周年的今年春天决定自费出版。

“希望读者能了解中国人的内心世界。我想不仅仅要在口头上说和平,在这之前还必须相互了解、成为朋友,”中岛说,“是养父母养育了我这个作为侵略者的日本孩子。”

中岛自己找到离家不远的有文堂书店拜托店主中村德义先生代销。中村说:“我是第一次读到这样的书,开书店的人为的就是出售感动。这本书饱含深情,传递出中国人的温暖。”

敗戦前後の混乱で、家族と生き別れ、中国人に育てられた日本人が中国残留日本人孤児となった。現在、東京都世田谷区で暮らす中島幼八さんはそのうちの1人だ。中島さんは、最近、自分の半生をつづった、「この生あるは――中国残留孤児がつづる」を自費出版した。ここには、瀕死の幼い命を救った善良な中国の人々の姿が描かれている。

朝日新聞は10日、「戦後70周年、中国と日本で温かい手を差し伸べてくれた人たちに捧げる一冊だ」とこの本を紹介した。7月には、中国でも中国語版が出版される。

東京で生まれた中島さんは、1歳のときに、両親と姉の4人で開拓団員として、日本から遠く離れた中国の東北地域に渡った。1945年、父親が軍に応召され、中島さんらは同年8月に敗戦のため避難民となった。

寒さが厳しくなるにつれ、食事にも事欠くようになった。母親は栄養失調で瀕死(ひんし)の状態に陥った中島さんを生かすため、断腸の思いで現地の農村の中国人に預けた。中国人の養母は、中島さんのおなかをさすり、食べ物をかみ砕いて口移しに食べさせ、つきっきりで看病した。そのおかげで中島さんは徐々に元気を取り戻していった。

1946年の秋、引き揚げが決まった実母が中島さんをめぐり養母と争いになった。村の役人が調停役となり、約20メートルの距離を取って2人を立たせ、中島さんをその真ん中に連れて行き、中島さん自身に選ばせることにした。中島さんは最終的に日々を共に暮らしていた養母のもとに駈け寄り、実母は姉と寂しそうに帰って行った。

小学校の同級生と一緒に遊び、産婆をしていた養母について歩いた体験、最初の養父が犬に噛まれて狂犬病で亡くなり、2人目の養父との生活、小学校を卒業してから預けられた3人目の養父のことなど、中島さんを育ててくれた善良な人々との生活の様子は、読む人の心をほのぼのとさせてくれる。

帰国を勧めてくれた先生と巡り合ったことで、中島さんは1958年、単身で最後の引き揚げ船に乗って日本に帰国。ずっと息子の帰りを待ちわびていた実母と再会した。この年、中島さんは16歳だった。その後、必死で日本語を習得し、日中友好協会に勤めた後、独立し、翻訳と通訳で身を立ててきた。

2008年に実母と姉が相次いで亡くなったことをきっかけに、自身が体験した半生を記録するため、本を執筆するという考えが浮かんだ。1年以上をかけて、中島さんはついに本を書き上げた。しかし、出版社を回ったがいい返事はもらえず、戦後70周年となる今春に自費出版した。

「読者には、中国人の心を理解してほしい。言葉で平和というだけでなく、その前に、お互いに理解し合い、友人になることが必要だと思う」と中島さん。「養父母は侵略者だった日本の子供である私を育ててくれた」。

中島さんは自宅近くにある有文堂書店に代理販売を依頼した。店主の中村さんは、「こんなことは初めてだけど、本屋は感動を売るために商売している。この本は、中国人の温かさが伝わる、気持ちのこもったいい本だ」と語った。

「人民網日本語版」2015年6月15日

 

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