「どこも煙塵に包まれ、空全体が黒く、電柱にも死体がぶら下がっていた」。今年91歳と高齢の日本人元解放軍兵士・山辺悠喜子さんは新華社の記者に自らの体験をこう語った。山辺さんは80年近く前、父の仕事で日本の東京から中国遼寧省の本渓へ転居した。本渓湖炭鉱の大規模なガス爆発の凄惨な光景は今なお忘れることができない。新華社が伝えた。
当時は日本の対中侵略の事は分からなかったが、1945年8月15日以降、敗戦とは何かを身をもって理解した。
その後、山辺さんは東北民主連軍(後に「東北人民解放軍」と改称)の人員募集に躊躇なく応じた。東北三省から北京、さらに漢口、桂林、南寧へと、簡単な医療・看護知識を学んだ山辺さんは解放軍に従軍して南北を転戦し、遼瀋戦役、平津戦役、宜沙戦役、衡宝戦役、広西戦役など大小の戦役に相次いで参加して、積極的に負傷者の治療にあたった。
1953年に山辺さんは帰国し、臨時雇いの仕事で生計を立てた。1984年に退職すると、当時の部隊の指導員と直ちに連絡を取り、長春ベチューン医科大学の日本語教師となった。1990年に中国黒竜江省社会科学院のチームが吉林省、長春市、ハルビンなどで行った「東北陥落14年史」の現地調査に、長年この問題に関心を持っていた山辺さんも参加。この調査で山辺さんは中国侵略日本軍の犯した残酷な犯罪行為の揺るがぬ証拠を自分の目で見て、被害者の証言を自分の耳で聞いた。
それ以来、山辺さんは中国侵略日本軍が中国で犯した途方もない大罪を暴き出して批判することに全力を注ぎ始め、非凡な意義を持つ第二の人生に入った。
山辺さんは「731部隊罪証展実行委員会」を立ち上げたほか、日本軍の遺棄した化学兵器の調査にも尽力し、毒ガス弾の被害を受けた中国民衆による日本政府への賠償請求を積極的に支援し、中国人被害者への賠償と謝罪の問題について日本内閣府遺棄化学兵器処理担当室と交渉を重ねた。山辺さんは、より多くの日本人に本当の歴史を知ってもらうために、こうした行動を取って続けてきた。(編集NA)
「人民網日本語版」2020年8月17日