日本人戦犯14人目・住岡義一の供述書公開 中国人を教育材料として刺突(一)
日本人戦犯・住岡義一の1955年5月の供述書によると、住岡は1917年に日本の大阪市で生まれた。1939年12月に日本軍に入隊し、同月、中国安徽省宣城県に赴いた。1945年8月、日本軍の投降後、国民党閻錫山の部隊に入った。1948年7月10日に山西省太原で捕虜となった。
住岡が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
1940年1月には、安徽省宣城で初年兵として受訓中に、「新四軍と抗日軍の俘虜約十名を『教育材料』として刺殺した」
1940年2月には、行軍の小休止時、「民家から逃げ出した一名の老人に急いで追付き、先づ私がその背中を銃剣で突き刺し」、「老人は口から血を吹き出して絶命した」
1941年12月には、山西省太原で、村民2名を逮捕し、「最初の一名を日本刀で胸部を刺し殺した」。そしてもう1人も、「部下に命じて斬殺」した。
1942年2月中旬には、太谷県新荘村の裏山の洞窟から村民4人を拉致し、「此のうち二十二、三歳位の婦人に対して私は私の部屋で強姦し、他の二十七歳位の婦人は私の許可の下部下二、三名が輪姦し夫々釋放した」。2人の男に対しては拷問したが答えないので、そのうち1人を殺害した。
同2月中旬には、摩天嶺東南方のある村で、「八路軍の退避していた病院を襲撃し、民家で患者五名を逮捕させ」、そのうちの2人を拷問した後、「私自ら日本刀で斬殺した」。
1942年2月下旬には、「大隊本部医務室曾根軍医大尉以下約十名がチフス菌とコレラ菌を撒布するのを援護した。この間私の小隊は中隊と共に和順県(中略)竜門村、官池堂、陽楽荘其他二、三箇村(村名不詳)等に対して要点を占領し医務室の人員が民家で碗、箸、庖丁、麺棒、麺板、机其他の食器類に細菌を塗りつけ又飲料水の入った水瓶に細菌を投入し或は村内に有る井戸と附近の小川に細菌を投入する行動を援護した」
1942年3月下旬には、「中隊の兵が留置中の八路軍婦人工作員(二十五歳位)を強姦し又県警備隊の兵が輪姦した為、中隊長加藤修二はこれが大隊に知らされない為、私に対して上記婦人と同じく拘留中の八路軍工作員二名と大盂鎮の商人一名計四名の殺害を命じた」
1942年5月下旬には、将軍墓村の西端の家屋で、前日に中隊が戦闘中捕虜にした八路軍の幹部5人と戦闘員を「私自ら日本刀で斬殺」した。
1942年6月には、彰徳県水冶鎮の中央大通りの宿舎で、「私は部下一名に番をさせ家の二十歳位の娘を強姦し、その後私が番をして部下をしてその母親を強姦させた」
1942年7月には、太原市侯家巷に駐屯中、「実敵刺突検閲を実施したる時(中略)連れて来た俘虜(大部分は八路軍の戦士、幹部及学生であり一部は抗日軍の戦士)約二百二十名に対し一人一名宛刺突殺害した」。「徴収現役兵に対する教育方針は(中略)生きた中国人を教育材料として肝試しの鍛錬することを方針とし話していた。(中略)各教官(私を含む)はこれに基いて準備教育を行った後(中略)検閲課目にある仮標刺突を実敵刺突に変更した」
1942年8月2日頃には、「機関銃初年兵約七十名を指揮して(中略)俘虜約七十名(その中約五十名は婦人)を教育材料として刺突し殺害した」。「今次検閲期間中、各教官と助教及初年兵約三百四十名が合計約三百四十名の俘虜を殺害した」
1943年6月下旬には、「中隊附田中少尉に支持して中隊の留置所に八路軍の嫌疑で拘留中の村民(中略)一名を該村外南側小地隙で日本刀で斬殺せしめ」た。
1944年8月下旬には、沁県で、「暖柳村及小河村より各一名の村民を逮捕し」、「私は馬隊長に命じこの二名を沁県城西側の河原で射殺」した。(編集MA)
「人民網日本語版」2014年7月17日