日本人戦犯24人目・杉原一策の供述書公開 3万人以上を処刑・弾圧(二)
日本人戦犯・杉原一策の1954年6月の供述書によると、杉原は1938年5月に偽満洲国司法部刑事司思想科科長、1945年1月に偽満洲国司法部刑事司長などに任じられ、同年11月に捕虜となった。
杉原が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
1938年5月から1939年5月まで、「私が思想科長在職中(中略)治安事件として中国人民を処罰弾圧した数は一九三八年五・六月頃哈爾濱高等検察庁及法院が処理した約四十名(中略)を初めとし合計約三百名である」
1941年2月から3月までは、「三肇地区(肇源県、肇州県、肇東県)事件」の処理を指揮し、起訴した「遊撃隊員及びこれと聯繫する同地区人民」は「計一七五名」あり、「検察及裁判の結果」、「死刑七二名、無期徒刑約四〇名」を宣告した。「警察官が逮捕後処分決定に至るまでに死亡したる者相当数あり、死亡の原因は現地拘留中の生活条件の不良と取調警察官の殴打等の拷問に因るものと思ふ」
1943年3月から5月までは、「巴木東事件」(巴彦県、木蘭県、東興県)で逮捕した中国抗日救国会人員と平和住民「約八〇名」を取調・起訴した。
「私が高等検察庁次長として監督管理の下に統制経済法令違反として処刑弾圧した数」は「三万人以上に上る」(編集MA)
「人民網日本語版」2014年7月29日