日本人戦犯21人目・中井久二の供述書公開 兵士慰安の妓楼に場所を提供(二)
日本人戦犯・中井久二の1954年8月から11月の供述書によると、中井は1897年に日本の鳥取県で生まれ、1936年から、偽満洲国錦州地方法院審判官や司法矯正総局局長などの職を務めた。
中井が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
1938年から1944年までには、「監獄ニ於ケル已決犯、未決犯収容者ノ全死亡者数ヲ掲ケマスト、一九三八年度六千名位、一九三九年度八千名位、一九四〇年度一万一千名位、一九四一年度一万四千名位、一九四二年度一万六千名位、一九四三年度一万八千名位、一九四四年度二万名位デ毎年監獄ヲ出入スル収容者ノ推定人員二十万人二対スル千分ノ三〇カラ千分ノ一〇〇ノ高率ニ上ッタノデアリマス」
1939年5月には、「兵士慰安ノ妓楼ニ供用スル為、金三万円ヲ以テ、建物一棟(約二百平方米)ヲ建設シテ、之ヲ貸与シ、日本帝国主義軍隊ヲ援助シマシタ」
1941年7月17日から1945年8月15日までは、「奉天第一監獄ハ、偽満洲国奉天医科大学ノ要求ヲ容シ、監獄内ニ於テ病死シ屍体引取人ナキ数百人ノ収容者ノ屍体ヲ、解剖学上ノ研究資料ニ提供スル名義ノ下ニ、同大学ニ送附シテ、解剖セシメタノデアリマス」(編集MA)
「人民網日本語版」2014年7月24日