日本人戦犯・今吉均の1954年6月の供述書によると、今吉は1906年に日本の大分県で生まれた。1932年に奉天自治指導部の職に就いた。1943年、偽竜江省警務庁庁長に任じられた。
今吉が自供した重要な犯罪行為として、以下のものが挙げられる。
1932年8月には、抗日運動を鎮圧するため、「警察隊五〇〇名、自衛団八〇〇名ヲ動因シ之ト交戦セシメ昌図県城西門外二キロノ地点二於イテ愛国者六名ヲ逮捕シ」、監獄に入れた後、全員を殺害した。11月上旬には、昌図駅附近で、日本の警察に命令し、「一名ノ中国人農民ヲ日本刀ヲ以ッテ斬首殺害シマシタ」
1933年2月中旬には、亮中橋や通江口の一帯で抗日群衆22、3人を逮捕した。3月上旬、田振東司令の父田旺とその参謀長朱小飛を含む14人を、「昌図県城南側ノ空地ニ於イテ日本人警察官五十嵐要次ニ命ジテ銃殺セシメマシタ」
同年5月には、偽熱河代理公署に任じられ、在任中、「警察庁ノ人民弾圧、民政庁ノ阿片生産ノ為メノケシ栽培ニ協力シマシタ」。
1935年8月には、日本軍による珠河県の治安粛清行動に参加し、ある部落で中国人の青年を逮捕し、「被害者ハ大豆畑ノ中デ八木軍曹ニヨッテ斬首殺害セラレマシタ」。またある部落では5人の青年を逮捕し、その5人はすべて軍刀によって殺害された。この行動を通じて「五百四十戸ノ家ヲ焼キ三千数百名ノ人々ヲ路頭ニ迷ハシメタ」
1943年には、「竜江省泰康ニ矯正輔導院ガ設立サレ」たのに協力し、「反満抗日『分子』トシテ中国ノ愛国者二一〇〇名前後ヲ矯正輔導院ニ送リ、「強制労働ニ服セシメ多クノ死亡者ヲモ出サシメマシタ」
1943年9月には、「一名ノ中国人ヲ秘密裡ニ逮捕シ」、拷問しても成果がないと、注射によって被害者を殺害し、死体を「嫩江ニ投入シマシタ」
1944年2月には、抗日義士を逮捕し、「景星県ニテ二名、●南県ニテ一名ヲ逮捕」(●はさんずいに「兆」)し、6月には42人の愛国者を逮捕し、斉斉哈爾の収監所に引き渡し、そのうち1人は拷問によって殺害された。(編集MA)
「人民網日本語版」2014年7月31日