日本人戦犯11人目・相楽圭二の供述書公開 8年で831人殺害(一)
日本人戦犯11人目・相楽圭二の供述書公開 8年で831人殺害(二)
日本人戦犯11人目・相楽圭二の供述書公開 8年で831人殺害(三)
日本人戦犯・相楽圭二の1954年11月の供述書によると、信楽は1916年に日本の福島県で生まれた。1937年4月に偽満洲国の三江県に赴き、1938年7月から歩兵少尉小隊長、中尉中隊長、警備隊長、代理大隊長、大隊長などの職に就いた。日本の投降後、閻錫山の部隊に入り、少将参謀長や団長などの職に就いた。1949年4月に捕虜となった。
相楽が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
1938年7月27日、大隊長から「うまく斬ってみろ」と命令され、八路軍捕虜の斬殺に参加した。「私は、四十歳位農民風の一名を自ら軍刀で首斬りして殺しました」
1940年5月には、神池県で、「便衣民兵三名を射殺」し、「中隊が大厳備鎮附近で逮捕して来た民兵二名を八角堡南門外で銃殺させました」
1940年7月には、朱家川一帯で12人の住民を拉致して拷打審問を受けさせた後「八名を銃剣刺殺し、四名を射殺させ、死体はその場に土をかぶせただけで遺棄しました」。さらに「行宮エン附近で逮捕した住民約七十名の内三十数名を、行宮エン東方一粁地点に於て、半身を土に埋めた上で機銃掃射をもってみな殺し」した。また本部の和泉軍医中尉は篠田衛生軍曹と共同して、八路軍の患者休養所内の重病兵員1人を「生体解剖手段により殺害しました」
1940年9月には、八路軍の百団大戦反撃作戦に参加し、任家村で、「第三中隊長加藤友記は同村の住民二十名を逮捕した上、寧化堡に於て全員射殺しました」
1941年9月下旬には、中隊主力を指揮して王家溝襲撃をさせ、「日軍の姿を見て逃げる住民は皆敵性だからやっつけて了えと射撃を号令し、結果、七名の住民を射撃傷害しました」。 「東寨鎮に於て住民男十名を拷問にかけ、婦人五名を輪姦したのを容認しました」
「私の一九三七年四月から一九四五年九月三日迄に於ける日軍に参加して中国人民に対して犯した罪悪事実を統計しますと次の通りであります。即ち殺人した総人数は八百三十一名で、殺人した対象内訳は住民(男)四百二十名、住民の婦女子十四名、民兵九十八名、兵員の内八路軍兵員二五二名、抗日軍兵員三十八名、外に捕虜兵員九名です」。殺人手段は、射殺、刺殺、斬り首斬殺、焼殺、墜死、餓死、獄死があった。
「傷害した総人数は五百十九名」で、その手段は、射傷、打撲傷、斬傷、地雷を踏ませて爆傷、刺傷があった。
「中国婦人を強姦した人数は合計三十四名」だった。
「逮捕した住民は総人数百十二名で、外に戦場に於て兵員を捕虜とした人数は三百六十八名有り、これらは後送処理後の状況は不明です。また逮捕・拉致して拷問又は殴打審問した人数は住民・二百十五名あり、外に平和住民を拉致して地雷踏み・道案内・馬夫・荷物かつぎ・軍用道路又は築城工事に無賃奴役した人数は千百七十一名有りました」(編集MA)
「人民網日本語版」2014年7月15日