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中日甲午戦争120周年 中国人は国辱を忘れず

人民網日本語版 2014年07月25日13:22

1894年9月17日、清朝の北洋艦隊と日本海軍は黄海大東溝海面で血戦を繰り広げた。これは中日甲午戦争で最も熾烈な黄海大戦である。北洋艦隊を指揮した鄧世昌(右上)は「致遠」艦などを率いて命がけで戦い、損害を受けた艦を敵側主力艦の「吉野」に突撃させ、艦全体の兵士250人以上が国のために殉死した。写真は戦闘中の「致遠」艦。 写真は甲午海戦で日本艦の攻撃で損害を受けた鎮遠艦(資料写真)。写真は北洋艦隊の艦艇の一部(資料写真)。1894年6月16日、大島義昌少将率いる日本軍の混成旅団は輸送艦9隻に乗り込み、「吉野」などの軍艦の護衛の下で朝鮮・仁川に上陸した。1895年3月7日、日本軍は遼寧・営口を占領した。写真は営口を占領した日本軍第1師団。1894年12月13日、日本軍は遼東重鎮海城を占領した。写真は攻撃した日本軍第3師団指揮部の一部将兵の写真。1895年3月7日、日本軍は遼寧・営口を占領した。写真は占領された営口の町。1895年4月17日、腐敗した清政府は甲午戦争を終わらせるため、日本帝国主義に迫られ、屈辱的な「馬関条約」を結んだ。写真は日本・馬関春帆楼で「馬関条約」を結ぶ中日双方。
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1894年7月25日、日本の軍艦が豊島海域で済遠、広乙の兵士輸送船2隻を宣戦布告せずに急襲し、甲午戦争(日清戦争)が幕を開けた。1カ月以上後の黄海海戦において中国艦隊はの日本艦隊に敗れた。翌年2月、アジア最強と言われた艦船25隻、4千人以上の兵士を備えた中国の近代的海軍艦隊である北洋艦隊が、威海衛(現在の威海市)で全軍が敗れた。

敗戦した中国は日本と不平等な「馬関条約」(下関条約)を結んだ。条約には台湾島及び全ての附属島嶼、澎湖列島、遼東半島を日本に割譲すること、日本に軍費の銀2億両(1両は50グラム)を賠償することなどが含まれていた。この後、中華民族はさらに深刻な災難に陥り、亡国と滅亡の縁へと一歩一歩進んでいく。甲午戦争は中国の各階層の人々を覚醒させ始め、様々な形式で救国の活動へと身を投じさせることになる。

再び甲午の年がめぐってきたが、炎黄の子孫(中国人)は国辱を忘れず、使命を心に銘記し、国のために力を尽くす。(編集YH)

「人民網日本語版」2014年7月25日 

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コメント

宮田聡美   2014-07-25113.96.149.*
「国恥」という言葉、これ一つとっても、私は中華民族を心から尊敬します。大和民族は「終戦」しかありません。「敗戦」と呼ぶ勇気すらないのです。身を切られるような「恥」を自覚し、その辱から血と涙で這い上がって、初めて人は「誇り」を手に入れることができるのです。そういう意味では、日本人、特に安倍政権下の日本人には、本当の誇りなどないし、立派な男、民族英雄など、絶対に出る事はありません。

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