日本人戦犯12人目・菊地修一の供述書公開 中国人俘虜に対する生体解剖(一)
日本人戦犯12人目・菊地修一の供述書公開 中国人俘虜に対する生体解剖(三)
日本人戦犯12人目・菊地修一の供述書公開 中国人俘虜に対する生体解剖(四)
日本人戦犯・菊地修一の1954年12月の供述書によると、菊地は1915年に日本の宮城県で生まれ、1937年に偽満州国に派遣された。1945年8月の日本投降後、国民党の閻錫山の部隊に入り、太原綏靖公署教導総隊少将砲兵団長に任じられた。1949年4月24日、山西で捕虜となった。
菊地が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
1938年9月下旬には、河北省尭山県尭山城付近を偵察中、「東門を通過中の二十五歳位の婦女と四歳位の女の子に対して私は、今頃迄城内に残っているのは敵の家族だ射てと命じ、部下に軽機関銃と小銃で射撃させ婦女を射殺させ、次で泣いて母の死体にすがっている女の子に対してもそのまま小銃で射撃させ射殺しました」
1938年10月上旬には、河北省高邑県で、「初年兵の度胸試しと気合いをかけるため」、「先ず三名に杭にしばった俘虜一名を三十米離れた所から一名づつ突撃の要領で刺突させ、次で別の初年兵二名に同時に穴の側の二名を刺突させ穴に突き落とし」た。
1939年3月下旬には、山西省代県峨口鎮で、炊事用道具の借用を拒絶した2人の女性を殴打した上、「家屋内で(中略)三十歳位の女性とその子供(中略)の二名を刺殺し、次で他民家で住民三名を刺殺し」た。
1939年12月中旬には、「太原市内の民家に(中略)案内させ、中国女性一名を強姦しました」
1940年3月下旬には、山西省崞県の「賈荘東北側七十米の河床上で、八路軍俘虜三名を中隊の兵五名が銃剣で刺突後射撃をし斬殺」した。
1940年4月上旬には、山西神池県で、「水泉梁東方峪地の住民の掃蕩に参加せしめ逮捕住民二十余名を刺突又は射殺させました」
1940年9月上旬には、「五寨県五寨城内で二十歳位の女性一名を強姦し、其の後更に二回強姦し」た。
1941年9月上旬には、「偏関城内の憲兵隊に特務工作隊員が婦女三名を連行し、爾後自分の宴会の酒の酌をさせた後二十三時憲兵隊で私が二十二歳位の婦女を強姦し、又部下将校二名の婦女二名の強姦を黙認しました」
同月上旬、中隊に配属中の軍医中尉河原信二が俘虜1名の生体解剖をしたいとの意見に「解剖を許可しました。(中略)先ず咽喉を切開して声がでない様にし、爾後盲腸の手術後河原信二が拳銃で腸を射撃し、腸の切開縫合を行いそのまま医務室において経過状況をみ、三日後の十四時頃更に関節の切断手術後中隊兵舎の庭に運び、河原信二がまだ生きている俘虜の頭部を拳銃で射撃し死体はその場に埋めました」
同月中旬、「偏関城内の中隊兵舎にあるトーチカ内で生体解剖を行い、腸を切断縫合し、翌日の午後迄経過を見、十七時偏関城内の中隊兵舎の東南側城壁の所に本人を運び、河原軍医が拳銃で頭部を射撃し惨殺後その場に埋めました」(編集MA)
「人民網日本語版」2014年7月16日