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シンガポールの「国父」リー・クアンユー氏の中国との縁 訪中は33回

人民網日本語版 2015年03月23日16:04

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 シンガポール首相府は23日、同国のリー・クアンユー元首相が病気のため同日午前3時18分にシンガポール中央病院で死去したと発表した。91歳だった。揚子晩報が伝えた。

■中国の5世代の指導者と会談、訪中は33回

 リー氏は中国に対して特別な感情を抱いていた。原籍は広東省梅州で、儒家思想が身についていた。毛沢東氏から習近平氏まで5世代の中国指導者と会談し、良好な関係を保っていた。リー氏は1976年の初訪中から現在までの39年間に計33回訪中し、「中国人民の古くからの友人」と呼ばれた。

■「鄧小平氏は私の偶像」

 1970年代、リー氏と中国との最初の接触は慎重で注意深いものだった。だが周恩来氏が長く入院しているとの頻繁な新聞報道を目にすると、初訪中の日程を決め、周氏を見舞おうとした。だが残念なことに、周氏はリー氏の訪問前に死去した。

 1978年11月の鄧小平氏によるシンガポール訪問について、リー氏は「1978年11月、74歳と高齢で、小柄で有能、きびきびして壮健な、身長5フィート足らずの年配者が、ベージュの人民服を着て、パヤレバ空港のボーイング707から降りてきた。足取りは軽やかで、儀仗隊の観閲後、私と共に車で大統領府内の迎賓館へ向かった。同日午後、私たちは内閣会議室で正式な会談を行った」と振り返った。

 リー氏は晩餐会で鄧氏に「もしあなたがシンガポールで生まれ、私が中国で生まれていたらどうなっていたと思いますか?私はあなたはシンガポールの指導者になっていたと断言できます。しかしもし私が中国で生まれていたら、途中で押しのけられていた可能性が高い。道半ばまで行ければ上等だったでしょう」と語った。

 リー氏はまた、シンガポールをガーデン・シティにしたことについて鄧氏から祝賀されると「私たちができたことなら、あなたがたはもっとうまくできます。私たちは土地のなかった中国南部の農家の子孫ですが、あなたがたにはインテリも、最も傑出した人材も、詩人も、芸術家もいる」と応じた。鄧氏はこれには答えず、ただリー氏を見つめただけで、食事を続けたという。1980年代から90年代にかけて、リー氏はほぼ毎年中国を訪れ、改革開放による発展と変化を目の当たりにしてきた。リー氏は一貫して鄧氏を政治面で偶像視しており、「私に最も深い感銘を与えた中国の開放政策の特徴は、鄧小平氏の果断さと全力の傾注だ」と語ったことがある。

■習近平氏はマンデラ級の人物

 2007年11月の訪中時の習近平氏との初対面はリー氏に深い印象を与えた。「習近平氏の度量は私に深い印象を与えた。彼は視野が広く、問題の見方が深く鋭いが、才能と見識を少しもひけらかさない。おごそかな感覚を人に与える。これが彼の第一印象だ。私はかつて彼が受けた苦難と試練にも思いをはせた。1969年に陝西省で生産隊に編入され、一歩一歩上へと奮闘したが、不満や恨み言を言ったことがない。彼はネルソン・マンデラ級の人物であるはずだ」。

 中国は正念場にあり、習氏はこうした問題の処理に力を集中するとリー氏は見ていた。

■「中国には自らのやり方がある」

 リー氏は本で「中国人は5000年来、中央が強大であって初めて国家は安全となり、中央の弱さは混乱と動揺を意味すると考え続けてきた。中国人1人1人がこの点を理解しており、これは中国人の根本的原則でもある。西側の一部は中国が西側の伝統的意味における民主国家に変わることを望んでいるが、これは起きない。中国は13億の人口を擁する巨大国家であり、文化も歴史も西側とは異なり、中国には自らのやり方がある」と指摘した。

 リー氏は「中国は目立たず強大化することを選択する。影響力が高まると、力を頼みに弱い国を虐げることはないが、同時に力をはっきりと示しもする」と考えていた。(編集NA)

 「人民網日本語版」2015年3月23日

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