多くの人の命を奪い、甚大な被害をもたらした東日本大震災から11日で4年を迎えた。時間の経過とともに、関連の報道も減り、被災者以外の人々の心の中では、いつの間にか震災が過去の事となりつつある。しかし、被災者にとっては、復興のために奮闘する日々が続いており、その不屈の精神と復興の進展が今、壊滅状態だった被災地に再び輝きをもたらそうとしている。人民網が報じた。
震災前は約7000人が暮らす漁港だった宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区は、津波で700人以上が亡くなり、住宅が密集していた海岸から2キロの範囲は、壊滅し更地と化した。2013年と14年の2度、筆者は閖上地区を訪問した。被災地の状況が劇的に変化したとはとても言えないものの、入念に練られた計画を基に復興が行われていることに感銘を覚えた。また、被災地で働くボランティアや記念のために残されている損壊した住宅、犠牲者のために更地にささげられた花束などを見て、感動を覚えた。
閖上地区は海岸に面した標高の低い平野が広がっている地域であるため、将来再び津波に襲われることを想定して復興を進めなければならないほか、現地の被災者の意見にも耳を傾けなければならないため、復興がなかなか進んでいない。震災から2年経った13年3月には、閖上地区で津波に襲われ損壊した住宅の撤去作業がほとんど完了し、周囲を見渡すと、道路やきれいに整備された側溝、一つの場所に山積みされた震災時のゴミなどが見えるだけの完全な更地となっていた。そして、追悼式を行う学生ボランティアや道端に立つ地蔵、廃墟で犠牲者にささげられた花束などが、喪失感を増していたが、同時に「希望の芽」も出始めていた。
震災から3年以上がたった14年5月、再び閖上地区に行くと、住宅の建設はほとんど進んでいなかったものの、「希望の芽」が大きく成長していることが感じ取れた。目にすることのできる人や工事関係の車両などが増え、防波堤の修理をしている人や海水に浸かってしまった田んぼで除塩作業をしている人、漁港を再建している人などがいた。漁港の周りにはプレハブが立てられ、閖上港朝市も再開。大勢の客が集まり、にぎわいを取り戻していた。
震災からまる4年が経った今も、閖上地区では復興活動が続いている。宮城県で被災し、復興の経過も見てきたという白石尚道さんは取材に対して、「防波堤や漁港が建設中で、ボランティアも被災地で活動を続けている。閖上港朝市にもよく行く。あそこの雰囲気は活気に満ちている」とし、震災が風化しつつあることに関しては、「津波で失ったものが人によって違うため、震災への思いも人によって違う。しかし、津波で家を失った沿海の被災者は現在、以前の家に戻ることはできないという現実を直視しなければならず、震災を忘れることは決してできない」と語った。
地震や津波による直接的な被害があったかにかかわらず、東日本大震災のような災害は全ての人がさまざまなことを考える機会となる。「地震により甚大な被害が生じた。人々は自然の力の大きさを思い知らされた。天災を前に、私たちは防災の意識を高め、自分や自分にとって大切な人を守ることができるようにするしかない」と白石さん。
閖上地区以外にも、計画の遅れや財政の問題、人手不足、原発事故による放射能災害の影響など、さまざまな原因で復興にはさらに時間が必要な地域も少なくない。日本の復興庁の統計によると、震災で自宅などを失い、避難している人は、2月12日時点で、全国でおよそ22万9000人にのぼり、およそ8万人が仮設住宅などでの避難生活を余儀なくされている。その多くが、家族や家を失い、今も不便な生活を余儀なくされる悲しみを背負い続けている。それら被災者が勇気を持って現実と向かい合うことも必要だが、政府や社会からの応援と関心も不可欠だ。どのように災害に対応するか。これはその社会がどれほど成熟しているかを量るバロメーターとなっているのではないだろうか。(編集KN)
(同記事の画像は白石尚道さんが撮影。撮影日:2015年3月8日)
「人民網日本語版」2015年3月11日