中国福建省が日本・長崎県の興福寺に寄贈した「世界平和の鐘」の設置が2月26日に無事終了し、興福寺の鐘鼓楼に吊るされた。同寺の松尾法道住職は、「梵鐘(釣鐘)は、平和のシンボルであり、殷々と響く鐘の音は、まるで日中友好のように、子々孫々に伝えられる」と話した。新華社が伝えた。
興福寺は、16世紀に建造された長崎四大唐寺の一つであり、悠久の歴史を誇る中日両国の文化交流史の生き証人といえる。同寺にはかつて、第2代住職である黙子如定(もくすにょじょう)禅師の誓願によって、清朝初期に華僑から寄付を募って鋳造された梵鐘があった。1820年に再鋳造されたが、第二次世界大戦中の1940年に破壊された。2019年11月、当時の福建省委員会書記を務めた于偉国氏を団長とする訪日団が長崎を訪れ、興福寺を見学。興福寺の梵鐘がなくなった経緯を聞いた于偉国氏は、長崎県の中村法道知事に会見した際に、福建省から新しい梵鐘を鋳造して興福寺に寄贈して、双方の友好の証としたいと申し出た。
「世界平和の鐘」は、直径約1.2メートル、高さ約2メートル、重さ約2.5トン。各方面の協力により、設置工事は2月26日午後、無事完了した。
松尾法道住職は、「第二次大戦中に興福寺は原爆の影響でほぼ損壊してしまった。先代住職が数十年の月日を費やして、少しずつ境内の建物を修復したが、梵鐘は失われたままだった。梵鐘が戻って来た今、私の中には、ようやく戦争が終わったという感覚がある」と語った。
長崎県文化観光国際部国際課の永橋勝巳課長は、「梵鐘を寄贈するという中国の行為そのものが、日中両国の友好の証である。長崎市民は、この鐘の音を聞くたびに、中国と現地の友好の歴史を想い返すでだろう」とコメントした。
興福寺は、中国の高僧・隠元禅師が東方への仏教普及のために住持した最初の寺で、境内には今もなお、隠元禅師が自らしたためた扁額や対聯などの作品が残っている。1654年、長崎の崇福寺や興福寺から住職になって欲しいとの要請を受け、63歳という高齢の隠元禅師が弟子を連れて日本に渡り長崎に上陸、興福寺の住職となった。その後、天皇や徳川幕府の将軍による保護・支援を受け、隠元禅師が京都宇治で黄檗宗を開いた。黄檗宗は、日本禅宗三大宗派の一つとなった。
隠元禅師が日本にやってきて伝えたものは、仏法に限らず、中国の建築物・彫塑・書道・印刷・書画・彫刻・音楽・医学・料理・茶道など多岐にわたり、世界的にも有名な黄檗文化が形成され、中日文化交流史に多大なる貢献を果たした。(編集KM)
「人民網日本語版」2021年3月3日