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被害者の苦しみ消えぬ重慶爆撃 日本政府に陳情

中国重慶からやって来た簡全碧さん(左から一人目)

 21日午後3時、中国重慶からやって来た簡全碧さん(74)が寒風吹きすさぶ中、日本内閣府の門前に佇んでいた。一枚の黄葉が彼女の白髪の上に舞い落ちた。簡さんは頭の黄葉を払い落し、眼の前の威厳ある内閣府の建物をじっと見つめ、「73歳、73歳になりました。しかし、大爆撃は私の一生に付きまとい決して離れません。今でも、耳に砲弾の爆音が聞こえます。あれから70年、この忌まわしい歴史を覚えている人がもうどれだけいるのか」と口の中でぼそぼそと呟いた。老女の眼に物悲しさが漂い、たとえようのないやるせなさが記者の胸をよぎった。日本新華僑報網が伝えた。

 簡全碧さんは、1939年から1943年の旧日本軍による「重慶大爆撃」の被害者のひとりだ。中国で生き残っている「重慶大爆撃」の被害者を代表し、日本政府に「陳情書」を手渡すために内閣府を訪れた。内閣府に来る前の今月19日、重慶大爆撃被害者賠償請求事件第20回公判が東京地方裁判所で開かれた。簡さんは原告団を代表して出廷、被害者全員に謝罪と弁償を行うよう日本政府に求めた。彼女が訪日して公判に出廷するのは、今年に入り2度目。

 簡さんは、1938年5月重慶市生まれ、現在73歳。1939年5月、重慶市渝中区羅漢寺自平巷にあった自宅が、旧日本軍が投下した爆弾によって破壊され、一家は祖母宅に身を寄せることを余儀なくされた。1940年8月、祖母宅も旧日本軍の爆撃を受け、祖母は倒壊した家屋の下敷きになって死亡した。その時、祖母の腕に抱かれていた簡さんは奇跡的に助かったが、大怪我を負った。爆弾の破片が簡さんの腹部と右胸下部に突き刺さったが、応急手当によって一命をとりとめたのだ。しかし、傷口がかなり深く、砲弾の破片を摘出した後もなかなか傷がふさがらず、当時まだ幼かった彼女は、想像を絶する苦しみに耐えなければならなかった。今でも、天気が良くない時には、傷跡に我慢できないほどの痛みが走るという。祖母宅が破壊された後、簡さん一家は身を寄せる場所がなくなり、生活は日ごとに苦しくなった。父親は簡さんの妹を里子に出し、それ以来妹とは会っていない。母親は爆撃後の苦悩と虚弱体質から、床に伏せることが多くなり、旧日本軍の爆撃を恐れながら若くして亡くなった。母親が他界した後、簡さんは父方の叔父の家に預けられた。爆弾の破片で右胸下部に重傷を負ったため、彼女の右乳房は正常に発育しなかった。

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