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中国の作家・方軍氏が「蘆溝橋事件」と最後の事件体験者について語る

人民網日本語版 2014年07月03日08:46

 七七事変(蘆溝橋事件)勃発から77年目を迎えるにあたり、人民網日本語版は「我認識的鬼子兵」(私が知る日本兵)の著者で、長年盧溝橋事件を体験した人々に直接会って取材をしてきた中国の作家・方軍氏(中国作家協会作家)を招きし、盧溝橋事件の歴史や事件を実際に体験した人々について語っていただきました。

盧溝橋事件の全過程を示す4枚の写真

司会者:盧溝橋事件にかかわる多くの写真をお持ちいただきました。ネット利用者の皆さんにご紹介いただけますか。

 方軍:盧溝橋事件の写真で皆さんに紹介したいものが4枚あります。事件の全過程を物語る4枚です。まずこの写真は、盧溝橋事件1週間前に日本軍が航空撮影したもので、これが盧溝橋です。日本軍の航空兵によるこの写真の撮影後、盧溝橋事件の計画が決定されたのです。日本軍はこの付近で演習中に兵士が行方不明になったと主張し、町での捜索を行いました。日本軍の本当の目的は、重要な軍事的な要所である宛平の町から中国人を追い出すことにありました。端にあるのが鉄道で、こちらが盧溝橋、下が永定河です。当時の永定河は流れが急でした。

 日本軍に話を戻しましょう。日本軍が盧溝橋事件を起こしたことを、多くの学者は偶然だと主張していますが、それは違います。日本軍には完全な準備がありました。日本には宛平県城の軍事地図もありました。ここには一文字山という山があり、日本軍は、事件の5日前にこの山に5基の大砲を備え付けたと自ら主張しています。宛平県城の東側の城壁を爆破したのはこの5基の大砲です。ところが中国軍にとっては寝耳に水でした。この歴史はきちんと覚えておかねばなりません。

 2枚目の写真も事件勃発前のものです。当時、中国側の29軍の兵士と中国侵略日本軍はにらみ合いを続け、どちらも譲りませんでした。盧溝橋事件の勃発には、4つの不平等条約の影響が働いています。第一に辛丑条約(北京議定書)。1900年、8カ国連合軍が北京を攻めた際、日本軍による北平(北京市旧称)駐留を認める規定がなされました。第二に1933年に結ばれた塘沽協定。これも不平等条約です。第三に1935年5月に結ばれた何梅協定(梅津・何応欽協定)。第四に1935年6月に結ばれた秦土協定(土肥原・秦徳純協定、チャハル協定としても知られる)。これらの不平等条約によって、29軍は国旗を掲げることも許されていませんでしたが、中国人兵士は諦めてはいませんでした。

 3枚目は盧溝橋事件のものです。北京を守る29軍は10万人に及びましたが、様々な原因によって1万人の敵に打ち勝つことができず、敗走を余儀なくされました。日本兵は銃や刀を持ち、自らの旗を掲げ、盧溝橋を攻めました。これを通じて中国を攻め、さらに広い地域への拡大を目論みました。


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