「万引き家族」と「身毒丸」に見る日本の家族の真相

人民網日本語版 2019年03月29日08:37

2018年、是枝裕和監督による映画「万引き家族」は、第71回 カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で最高賞のパルムドールを獲得し、大きな話題となった。そして、中国でも公開され好評を博した。同作品を、是枝監督の15年の作品「海街diary」と比べてみると、両作品は同じ系統で、後者は水面上の氷山を描いているのに対して、「万引き家族」は水面下の深いところにあるものに迫っているということに気付く。光明日報が報じた。(作者・周翔。天津師範大学外国語学院講師)

もし、先に「身毒丸」を見ていなければ、上記の事には気付かなかったかもしれない。

「身毒丸」は寺山修司と岸田理生監督が共同で手掛けた1970年代の舞台作品だ。寺山監督は子供の頃から母親とそりが合わず、多くの作品で母と息子の対立、敵対を描いている。なかでも「身毒丸」は、奇異なストーリーで母親と息子の関係が描かれている代表的作品だ。少年・身毒丸は、幼い頃に母を亡くし、継母・撫子を受け入れることはできず、その関係は悪化の一途をたどる。撫子は身毒丸の目を潰し、盲目になった身毒丸は、復讐のために義理の弟・せんさくを殺す。家族は崩壊し、父は狂う。しかしその後、撫子と身毒丸は和解し、禁断の恋へと落ちる。舞台演出家の故・蜷川幸雄氏は「家族の構造」という観点からこの作品を解釈し、「現代(明治維新以降)の日本の家族構造は、父親を中心としている。同作品では、父親が母親を家族の『必需品』とみなし、『家族』をつくる。しかし、買ってきた継母の女性としての意識が覚醒してしまい、その家族は崩壊してしまう」と説明する。

蜷川氏が演出を手掛けた演劇「身毒丸」では、身毒丸と撫子の関係を通して、現代の日本の家庭制度に強く反対する思いが描写されている。「身毒丸」の家族は、表面的には、父親、母親、子供という家族の要素を備えているものの、それは父親が母親を買ってくるという金銭関係の上に成り立っており、撫子は自分を女性としてではなく、家を構成する母という役割でしか見てもらえず、物のような扱いを受けているにもかかわらず、そうでなければ家庭の表面的な調和がとれないことに苦しむ。そして、女性として認められたいという基本的な願いが表面化した時、その調和は音を立てて崩れてしまう。つまり、日本の現代の家族制度の基礎となっている倫理、道徳は「形」だけにこだわり、人の自由、本来持つ感情を無視していると言えるだろう。

「家庭主義」や「個人主義」も同じく日本の現代化の産物だ。明治維新以降、西洋の思想の影響を受け、人の個性、個人としての価値が重視されるようになった。そして夏目漱石や自然主義文学の作家、白樺派の作家など、各世代の文化人の取り組みの結果、現代的な個人主義を重視する見方が広がった。しかし、個人とグループは本来一体の両面であり、現代的意義を持つ個人主義は、共同体意識の現代化と結び合わせて考えるべきで、「家族主義」とはつまり、現代的な共同体意識であると言えるということを忘れてはならない。

「身毒丸」が強く反対しているのは、大正の時代(1921-26年)に形成された現代倫理だ。その倫理の形成は「大正デモクラシー」と関係がある。工業化により、経済の基礎に変化が生じ、農家は生計を立てられなくなり、都市化が進み、普通選挙に基づいた公民意識が覚醒し、女性が教育を受け、社会に進出するようになり、両親と子供からなる核家族という現代的な家族構造が形成された。第一次世界大戦後、日本の工業は急速に発展し、企業の数が激増。企業の安定した長期にわたる成長を維持するために、企業経営のあり方に家族主義を持込む形でなされる経営方針「経営家族主義」が生まれた。周知の終身雇用制度や年功序列という制度も、そのような意識の影響下で生まれた。企業の職場倫理は、家庭倫理を参考に築かれ、血縁関係に基づく家庭倫理・道徳が、血縁関係のない人が集まる企業の倫理溶け込んでいった。その種の家族主義では、個性をある程度捨ててグループの利益を守らなければならず、同じ根を持つ個人主義や家族主義とはある意味対立していると言える。

「現代の日本の家族倫理に対する反対」というテーマを、是枝監督も引き継いでいる。「万引き家族」に登場する家族は紛れもなく「形式上の家族」で、その間に血縁関係や婚姻関係は存在しない。道義上の倫理関係が存在するのはさやかと初枝の間だけだ。後半で、さやかは、初枝が自分を利用して両親からお金を無心しているだけであることに気付く。倫理的関係がお金によって破壊されるという流れは、「身毒丸」と似ている。しかし、血縁関係のない、形式上の「父親」、「母親」、「祖母」、「姉」と、祥太、リンの間には非常に深い絆が築かれている。「母親」の信代は、誘拐と殺人の容疑で逮捕された時、「子供にお母さんって呼ばれたことある?」と聞かれ、動揺して涙を流す。

不思議なのは、それら「形式上の家族」が強い「絆」を築き、そこに血縁関係も、利害関係もなく、それぞれが共通の価値観を持っているわけでもない点だ。

「絆」は、中国語で表現するのがとても難しい言葉だ。「絆」は血縁関係という枠を超え、「万引き家族」の中でも、完全に血縁関係を超えて、人間の感情的本能に基づいて築かれている。「海街diary」では、3人姉妹と腹違いの妹との「絆」が描いている。「身毒丸」と比較すると、「万引き家族」の表現手法は異なるものの、それが訴えているものは同じだ。「万引き家族」は、ブラックジョークのような表現方法で、それなりの価値を持つ「形式上の家族」を描き、血縁関係に基づく現代家族倫理に反対する姿勢を示している。「絆」を強調し、本当の家族の表面的な親しさを風刺している。しかし、「身毒丸」の強烈なロマン主義的表現とは異なり、「万引き家族」の結末は現実主義的表現で描写されている。その「形式上の家族」は、そこで築かれている「絆」が、現代の法律的道徳に反しているため、結局バラバラになってしまうことになる。個人の主体性は結局、制度という壁を乗り越えることはできないのだ。

「絆」は制度に立ち向かうことができないという、現代性に対する批判を「万引き家族」は強調している。同作品は「絆」を通して、形だけの現代倫理を批判しているだけでなく、そのような倫理が形成される根本的な原因を考えさせるものともなっている。同作品では、現代の経済制度の人間関係の形成や出会い、別れに対する影響力がいろんなシーンで表現されている。

「身毒丸」も、「万引き家族」も、現代の家族制度を深く分析している。そして、過激な作風の寺山監督や蜷川氏にしても、温厚な作風の是枝監督にしても、「現代の家族制度」に疑問を持ち、日本の伝統的な家族制度を復活させるべきであるという思想を表現している。「身毒丸」にしても、是枝監督にしても、その作品からは、ぼんやりとした実存主義の影響が見え隠れする。翔太は、「形式上の家族」が自分を見捨てようとしたのを見た後も、「家族」として接する。それは、長年培われた生活習慣のようなものなのかもしれない。翔太にしても、身毒丸にしても、「生きる」ことが第一であって、道徳や倫理は二の次なのだ。現代性が今後も引き継がれるとすれば、個人や家族はどこに行きつくのか、その答えは依然として不明確だ。しかし、明るい未来が見えている以上、無意味なことのために競争し合うことをしてはならず、実在主義の影響を受けて、現代性に対する反省を止めてしまってもならない。 (編集KN)

「人民網日本語版」2019年3月29日  

  

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