国際捕鯨委員会(IWC)から脱退することを宣言した日本はこのほど、今年7月から商業捕鯨を再開する方針を示した。
オーストラリア海洋保護協会のダレン・キンドリサイズCEOは、「日本の『IWC脱退』は、『国際社会に背く』ことであり、『他の国際条約・公約にとって非常に危険な先例となる』ことを意味している」とコメントした。
ニュージーランド・ホエール&ドルフィン・トラスト(The New Zealand Whale and Dolphin Trust)のLiz Slooten代表は、「日本がIWCを脱退すれば、IWCにとって重大なダメージとなる恐れがある。一部の国が日本に倣うことも考えられ、IWCは分裂してしまう可能性もあり得る」との見方を示した。
日本のIWC脱退宣言に対する憂慮や非難は、なぜこれほど強烈なのだろうか?また、日本はなぜIWCを脱退しなければならなかったのか?
◆捕鯨は日本の伝統文化
多くの日本人にとって、「捕鯨は日本の民族的伝統だ」という考えだ。
日本では、縄文時代(紀元前1万4500年~300年前)の土器が出土しており、その土器の表面には、捕鯨の絵が描かれており、クジラの骨も見つかっている。当時、日本北部に住んでいた少数民族のアイヌ人が、毒を持つ植物から毒を採取し、その毒を矛の先に塗り、小舟に乗って海に出て鯨を捕獲していたとみられている。
だが、捕獲が極めて難しかったことから、クジラの肉は、当時の人々にとって、日常的に摂取できる食材ではなかった。日本における大規模かつ組織的な捕鯨が行われ始めたのは、室町時代(1336年―1573年)末期の記録から読み取れる。当時、捕鯨の主な目的は、鯨油を取ることで、鯨油から灯油や水稲用殺虫剤が造られていた。「明実録」には、日本から明朝にクジラを貢物として贈ったという記載がみられる。15世紀の日本では、年間約800頭の鯨が捕獲されていたと推定されている。
その後、捕鯨業は次第に製銅業や製鉄業に肩を並べるほどの国の一大産業になっていった。捕獲したクジラの利用範囲もより拡大し、鯨油は灯油のほか、石鹸、スキンケア用品、潤滑油の原料としても利用されるようになっていった。
明治時代になると、実業家の岡十郎氏がノルウェーの捕鯨技術を導入した。その方法は、遠くから捕鯨網をかけるという方法で、捕鯨の難易度を下げただけでなく、安全性も向上し、捕鯨の効率は大幅にアップした。目先の利益優先で将来のことを考えないというような方法が横行したことで、当然のことながら、日本近海の鯨の数は激減した。だが、漁民たちは捕鯨を止めることなく、今度は遠洋にまで繰り出すようになっていく。1934年、日本初の遠洋捕鯨船団が南極に赴いた。1938年から1939年のシーズンだけで、6隻の日本遠洋捕鯨船が南極海域でシロナガスクジラ2665頭、ナガスクジラ3344頭、ザトウクジラ883頭、マッコウクジラ647頭を捕獲した。
第二次世界大戦中、捕鯨業は一時中断された。敗戦後、日本国民の生活は疲弊し、極度の食料不足に陥った。マッカーサー連合国軍最高司令官の主導のもと、日本は近海および遠洋での捕鯨を再開。東京農業大学の小泉武夫教授が著した「鯨は国を助く」によると、1947年の日本の食肉供給量のうち、動物性タンパク質総量に占める鯨肉の割合は70%に上り、捕鯨量は1957年から1962年までピークに達し、鯨肉への日本国民の実質依存度は70%を占めた。当時、年間約2万4千頭の鯨が捕獲されていた。
このような状況から、「鯨肉を食べて育った世代」が生まれた。それは、戦争中または戦後に生まれた日本の子供たちのことだ。
実際には、日本経済の高度成長に伴い、肉類の輸入が増えたことで、鯨肉の消費量は減少傾向が続いた。英BBCの報道によると、2015年、日本人1人あたりの鯨肉消費量はわずか30グラム(卵1個の重さは約50グラム)だった。
このほか、米ドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」では、非常に大きな時間を割いて、イルカの肉や鯨肉に含まれる汚染物質の濃度が極めて高く、一部の数値データは、日本政府が定める上限を大幅に越えていることが強調され、これらの有機水銀化合物による慢性中毒は、「第二の水俣病事件」になる可能性が高いと警告している。
このようにたとえ「伝統」であったとしても、すでに廃れようとしているところであり、その上重大な健康リスクも潜む食材なのだ。
このウェブサイトの著作権は人民日報社にあります。
掲載された記事、写真の無断転載を禁じます。
Tel:日本(03)3449-8257
Mail:japan@people.cn