傈僳(リス)族の女性・余燕恰さん(23)は今年6月、昆明医科大学第二臨床医学院を卒業し、故郷の雲南省怒江リス族自治州に戻って、怒江州人民医院の医療従事者として働くことを決めた。人民網が報じた。
普通の人にとって、大学を卒業し、故郷に戻って就職するということは特に珍しいことでもないかもしれない。
しかしこれはこの物語の全てとは言えない。余さんのこれまでの成長の過程を見ていくと、そこには「愛の橋」によって運命が変わり、思いやりのバトンで繫がれた感動のエピソードが隠されているからだ。
余燕恰さんの卒業写真(写真提供・本人)。
余さんの実家は、怒江リス族自治州福貢県馬吉郷布にある。
時間を2007年まで遡って見てみると、同州を流れる怒江の両岸に住むほとんどの人々と同じく、地元の村民も川を渡るには、ワイヤーロープを滑車で滑っていくしかなかった。当時、余さんも川の向こうにある学校に通うために、ワイヤーロープで川を渡っていた。
ある日、ピンク色の服を着て、リュックを背負い、一人でワイヤーロープを滑車で滑って対岸にある布臘小学校に向かう余さんの姿を、あるメディアの記者がカメラに収めた。
メディアが撮影したワイヤーロープを滑車で滑っていた子供の頃の余燕恰さん(写真提供・本人)。
当時8歳だった余さんはちょうど小学1年生になったばかりで、1日に2度、一人でワイヤーロープを滑車で滑って川を渡るという生活をすでに2年も送っていた。
「耳には風がうなる音が聞こえ、下を見ると、濁った水が激しく流れていて、心臓がバクバクしていた」と、余さんはワイヤーロープを滑車で滑っていた当時のことを今でも覚えているという。
まだ幼い余さんが毎日一人でワイヤーロープを滑車で滑って川を渡っている姿を見た記者は、切ない思いに駆られ、すぐに中国全土の複数のメディアと連絡。布臘小学校の前に「愛の橋」を架けるために、共に社会に向けて寄付を募った。
ワイヤーロープを支える柱の横に立つ子供の頃の余燕恰さん(写真提供・本人)。
2008年3月、「愛の橋」が完成し、メディアの記者や橋の建設に関わった人々が見守る中、橋を渡る一人目として、余さんは橋を渡った。
その時、人生において初めて橋を見た余さんは、橋の真ん中まで歩き、橋の下を流れる濁流を見て怖くなり、前に進めなくなってしまったため、周りにいた人に支えられてやっと渡り切ることができた。
橋ができて、余さんの運命も大きく変わった。
「それはまるで暗い道に、明るい街灯が灯されたかのようで、暮らしも以前ほどつらく感じなくなった。そこでもっと勉強に励むようになった」と語る余さんは、2018年に昆明医科大学第二臨床医学院の医学検験技術学科に優秀な成績で合格し、村で初めて大学に合格した子供となった。
そして余さんが進学していく過程で、貧困脱却の難関攻略や農村振興事業も、怒江の両岸で勢いよく展開されていった。
政府の政策資金のサポートの下、余さん一家は山腹から川の近くに建設された新しい家に引っ越し、余さんも学費補助金のサポートを常に受けられるようになった。また、怒江の両岸を繋いでいたワイヤーロープは2016年には全てしっかりとした鉄筋コンクリートの架け橋に変わり、地元の人々の移動は一層便利になった。さらに、余さんの家の下にある川には、また別のさらに大きな橋が架けられた。
自宅近くに新たに架けられた橋の前に立つ余燕恰さん(写真提供・本人)。
怒江に沿って建設された道路も開通し、川の両岸の観光資源も次々に開発され、以前は人里離れた場所だった怒江峡谷も日に日に活気を帯びるようになっていった。
「これまで、私のために『光を灯してくれる』人にたくさん出会ってきた。彼らがいなければ、今の私はないので、本当に感謝している」。自分の運命が変わり、故郷が急速に発展するよう支え続けてくれた政府や社会各界のサポートに対する感謝の気持ちを、余さんは心に刻みつけている。大学に入学した時から、余さんは勉強して成果を上げることができれば、故郷で恩返しをしたいと考えていたという。
そして今回、余さんはついに怒江州人民病院に就職することが決まった。
9月から勤務することになっている余さんは、「今後は、私を育ててくれた学校の期待に背くことがないように、学んだ知識をできるだけ活用して、故郷の衛生事業発展に貢献したい」と、期待を膨らませている。(編集KN)
「人民網日本語版」2022年7月14日